日向伊東氏家臣一覧
このページは、戦国大名日向伊東氏の家臣一覧です。
戦国時代を中心にしております。
史料の表記を元にしておりますので、同一人物が重複して載っていることもありますのでご注意ください。
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伊東家親族
人 名内 容出典史料
伊東麻生伊東義祐の次女。北原兼守の妻。元和4年に没。日向記
伊東右衛門伊東祐安の弟。天文24年7月7日に飫肥城攻防戦で名乗りを上げて北郷図書助を討ち取った。永禄11年6月、飫肥城受け渡しの時に、使者として派遣される。木崎原の戦いの時、敗走する伊東軍を立て直そうとして伏兵にあい戦死した。日向記
旧記雑録
伊東源四郎伊東祐安の子。木崎原の戦いの時、伊東軍を率いる大将の一人だったが戦死した。旧記雑録
伊東左兵衛佐13代当主尹祐の弟祐武の子で、伊東家相続問題で祐武が伊東祐清(義祐)・祐吉兄弟と対立した後、荒武三省らの圧力で切腹すると、米良石見守と結んで乱を起こした。内山城に籠もるが、内通者によって祐清方軍勢に攻め込まれ、家臣海老原六郎太郎が身代わりとなり討ち死にし落ち延びた。日向記
伊東新三郎日向八代城主。元の名を新助。
伊東隠岐守の子。
日向記
伊東祐勝
1569〜1594
小右衛門尉。義勝。ゼロニモ。伊東義益の次男。
伊東家没落後にキリシタンとなる。天正遣欧使節の候補に挙がるが、安土セミナリオに行っていたため予定が合わず、伊東マンショが代わりに行くことになったといわれる。その後、旧領を回復した叔父伊東祐兵を頼った。朝鮮出兵に参加したが、病を得て帰国する時、暴風雨に巻き込まれ長門に漂着。同地で病死した。
日向記
伊東大系図
伊東祐審
〜1577
大炊助。伊東一族で重臣。
御感状連判衆に名を連ねている。13代当主伊東尹祐の弟祐武の子。父祐武が紛争を起こして自刃した後、伊予へ渡っていたが、義祐の代に戻ってきて、家臣団に加えられた。永禄11年2月21日、飫肥城に救援に来た島津軍を迎え撃ち勝利している。天正5年12月の島津進攻の際、諸県郡本庄で島津軍を迎え撃とうとしたが、内通者があり、待ち伏せされて捕縛され切腹した。
日向記
伊東大系図
伊東祐青修理亮。伊東一族で重臣。名の読みは「スケキヨ」あるいは「スケハル」か。
御感状連判衆に名を連ねている。妻は伊東義祐の娘町上で、4人の子がいたと見られ、うちひとりが伊東マンショと言われる。伊東マンショの市民権証書に見られる「シュリノスケ」は父親である祐青のこととみられる。天文24年9月12日の犬追物に参加。永禄11年2月21日、飫肥城に救援にきた島津軍を迎え撃って勝利している。「長谷場越前自記」によれば、木崎原の戦いで本地原に陣を構え、島津義弘と対戦したが、敗れて小林へ退却したとある。天正4年4月25日の犬追物にも名前が見られる。
日向記
長谷場越前自記
伊東祐実弾正忠入道久微。伊東一族で重臣。
御感状連判衆に名を連ねる。13代当主伊東尹祐の3女(義祐の姉)の子。
日向記
伊東大系図
伊東祐兵
1559〜1600
伊東家19代目当主で、飫肥藩初代藩主。民部大輔、豊後守。従五位下。
伊東義祐の3男。幼少の時、新たに領有した飫肥の城主となるが、伊東家没落で豊後へ落ち延びる。耳川の戦いの後、大友家と険悪になり四国へ渡る。伊予河野氏領内に住むが貧窮した。後、三峯という既知の山伏に説得され、播磨へ渡り、伊東掃部助という人物の労で、中国遠征中の羽柴秀吉に見いだされて30人扶持で家臣となる。山崎合戦の戦功があり、金房兵衛尉政次銘の槍を授けられた。さらに翌年には河内半田500石の知行を受け、堺に屋敷を構えた。秀吉の九州攻略では黒田如水の元に配属され、秀長軍の日向路先導役を担当し、戦後、曽井や飫肥など1736町を知行。旧領を回復した。はじめ曽井城を大改装して拠点としたが、その後、かつて住んだ飫肥に本拠を移した。朝鮮出兵に兵を派遣し、庄内伊集院の乱では、島津側から疑惑を取りざたされたが難を乗り切り、関ヶ原の戦いでは東軍側に立つ。病により自らは大坂に残り、子の祐慶を日向に帰国させた。10月11日に大阪で死去。妻は兄義益の娘。名はスケタケ、スケタカの2説がある。
日向記
伊東大系図
島津家文書など
伊東祐信
1555〜1572
伊東相模守祐梁の子。新次郎。元亀3年5月4日、木崎原の戦いで島津義弘と槍合わせとなり討ち死に。18歳。祐信は一説には槍の達人で、対戦した島津義弘は槍合わせで槍先が高くなり不利になったが、義弘の中間が機転を効かせてその乗馬の膝を打ち、前のめりに地面につかせたことで、体勢を立て直し、祐信を貫くことが出来たという(ここから義弘の乗馬は「膝突栗毛」と呼ばれた)。その槍合わせの場に後に戦死者供養の六地蔵塔がたてられた。日向記
伊東家大系図
木崎原御一戦参考
伊東祐慶
1589〜1636
伊東家20代目当主で、飫肥藩2代藩主。左京亮、修理大夫。従五位下。
伊東祐兵の長男。元の名を祐典。関ヶ原の戦いでは、11歳で東軍側につき、病床の父に代わり帰国、10月に家老稲津掃部をして西軍側の高橋元種領宮崎城を攻略(黒田如水の指示による)。しかし、高橋元種はすでに東軍に寝返っていたため問題となり、やむなく稲津氏を処分した。検地により5万7千石を領有。
日向記
伊東大系図
伊東祐松
〜1578
相模守。入道帰雲。伊東家の重臣。
13代当主伊東尹祐の弟祐梁の子。伊東相模守祐梁の父。御感状連判衆に名を連ねる。天正5年12月の伊東家没落の時、義祐の豊後行に同行。翌年、日向三城で没したとあるので、大友軍に参加し戦死か。
日向記
伊東大系図
伊東祐充
1510〜1533
伊東家14代当主。大和守。
13代当主伊東尹祐の長男。元の名は祐修、祐裔。福永氏を外戚にし、後の内紛のきっかけとなる。妻は島津一族の庄内北郷氏。天文2年8月28日、24歳で病死。
日向記
伊東大系図
伊東祐梁
〜1572
伊東家重臣。相模守。
13代当主伊東尹祐の弟祐梁の孫。入道帰雲の子。永禄年間、伊東祐兵の後見人として、飫肥に入る。元亀3年7月16日に没。名はスケムネか?
日向記
伊東大系図
伊東祐基
〜1578
下総権守。伊東一族で重臣。
13代当主伊東尹祐の弟祐梁の孫伊東相模守祐梁の弟。伊東家没落後、旧領回復のために大友軍の遠征に参加、耳川の戦いで戦死した。
日向記
伊東大系図
伊東祐安
〜1572
伊東家重臣。加賀守。
13代当主伊東尹祐の弟祐武の子。木崎原の戦いで伊東方大将の一人となるが、劣勢になった際に陣に留まり、渋谷貞国・重直兄弟に討たれた。一族は後に島津家に仕えて薩摩伊東家となる。
日向記
旧記雑録
木崎原合戦記伝
木崎原御一戦参考
伊東祐吉
〜1536
伊東家当主。六郎十郎。
南家伊東氏藤原姓大系図では16代となっているが、順番でいえば15代目。13代当主伊東尹祐の3男。出家していたが、長兄の死後、次兄祐清を抑えて、重臣長倉能登守に推されて宮崎城主となり、伊東家当主の地位につく。しかし3年後に病死。
日向記
伊東大系図
奈古神社文書
伊東祐命伊東一族。三河守。
御感状連判衆に名を連ねる。読みはスケヨリ?
日向記
伊東高城伊東義祐の長女。肝付良兼の妻。良兼の没後、伊東家へ戻る。母親は籾木氏。伊東没落後、伊東祐兵一行について各地を転々とし、慶長11年に大坂で没。伊東大系図
伊東又次郎伊東一族。
12代当主祐国の弟祐夏の曾孫で、伊東掃部助の子。永禄4年10月18日の犬追物に参加。木崎原の戦いでは伊東軍を率いる大将の一人だったが戦死した。
伊東大系図
旧記雑録
伊東マンショ
1570〜1612
キリシタン。天正遣欧使節の主席代表。
伊東修理亮祐青と、伊東義祐の娘町上の子。幼名は虎千代丸か。本名は祐益といわれているが、キリシタン研究の松田毅一氏は、この説を疑問視していた。伊東家没落後、宣教師ラモンに拾われ、洗礼を受けた。島原の有馬セミナリオで勉強し、遣欧使節の選定の際、従兄弟祐勝が安土に行っていたため、急遽選ばれた。天正10年1月28日に長崎を出立し、マカオ、ゴア、喜望峰を経て、ポルトガルに到着。スペイン王国、トスカーナ公国、フィレンツェを経て天正13年2月にローマに入り、教皇グレゴリオ13世に謁見、市民権を得た。シスト5世の即位に列した後、天正18年6月に帰国。バリニャーニの一行として豊臣秀吉に謁見。秀吉から家臣の誘いがあったが断ったと言われている。慶長6年にマカオへ渡り、3年後に帰国。同13年に長崎で司祭となる。この頃、西日本各地の大名を訪れており、飫肥の旧領を回復した一族の伊東氏も訪ねている。慶長17年10月21日没。
フロイス日本史など
伊東義祐
1512〜1585
伊東家当主。三位入道。
南家伊東氏藤原姓大系図では15代となっているが、順番から言えば16代当主。元の名を祐清。13代当主伊東尹祐の次男。兄の死後、弟祐吉が当主の座に着いたため、一時期出家していた。弟の死後当主の座に就く。一族の内紛を鎮め、さらに内紛に便乗した飫肥島津氏の進攻を撃退して、領内をまとめた。

・足利義晴の一字を賜い義祐と名乗る。日向記によれば天文6年に従四位下、天文15年に従三位となっているが、官位相当制でみると叙位の年月日には疑問点も残る(ただし戦国期の官位相当制にはおかしな所もある)。天文10年大膳大夫。「お湯殿の上の日記」では、永禄4年8月に叙位に関する記録がある。永禄年間頃、将軍家一代御相伴衆に列せられる。

・天文10年以後、繰り返し飫肥を攻める。日向真幸院北原氏、大隅肝付氏、肥後相良氏と盟を結び、豊後大友氏、土佐一条氏と姻戚関係を結んだ。永禄11年に飫肥の島津氏を駆逐し、庄内都城と県付近(今の延岡)を除く日向の大部分を支配。日向伊東氏最大の版図を築いた。旧記雑録等の記録から、大隅での諸合戦にも支援をするほどの勢力となっていたことが判る。しかし、元亀3年5月4日に木崎原の戦いで島津義弘に敗れて有力な家臣を多く失い衰退。この頃から、家臣との間に溝が深まったと言われ、天正5年12月、野尻城主福永丹波守の謀反により大挙進攻した島津氏に追われて、豊後に落ち延びた。

耳川の戦い以後、大友家と関係悪化し、3男祐兵の家族と共に四国に渡る。伊予河野氏領でしばらく暮らしたが、祐兵が羽柴秀吉の家臣になるとき、自分はかつて一国の太守であったからと秀吉の家臣になることを断り、一族とも別れて中国地方を放浪した。

・天正13年、病を得たため、祐兵の家がある堺へ向かい、船中で倒れ、同年8月5日堺で没した。歌を多数残している。
日向記
伊東大系図
旧記雑録
その他多数
伊東義賢
1568〜1594
伊東家18代当主。左京亮、三左衛門尉、バルトロメオ。幼名慶龍。
伊東義益の長男。父義益が急死したため、祖父義祐が後見し当主となる。天正5年には正式に家督を譲られるが、同年末に島津氏の攻略にあい没落。大友宗麟の元で養われ、キリシタンとなる。その後は、叔父祐兵が豊臣秀吉に仕え、飫肥の旧領を回復したため、それを頼り土地を与えられた。朝鮮出兵に参加したが、帰国する途中対馬付近の船内で病死した。27歳。伊東宗家の出自だが、旧領を回復したのは叔父の家だったことから、後継をめぐる問題で暗殺されたという説もある。
日向記
伊東大系図
伊東義益
1546〜1569
伊東家17代当主。
伊東義祐の次男。母親は福永氏で、長男が早世したため、天文19年に名を六郎(当主共通の名)と改め、義祐が後見した。永禄3年正式に家督を継ぐ。従四位下左京大夫。永禄4年10月18日の犬追物に参加している。一族家臣の期待を集めていたと言われるが、永禄12年、島津氏との戦いを目前に、都於郡の岩崎稲荷で戦勝祈願中に急死した。病死、暗殺などは不明。24歳。妻は土佐一条房基の娘。
日向記
伊東大系図
伊東家重臣
・伊東家の重臣のうち、日向記には「御感状連判衆」と「御出頭衆」というのがまとめて列挙されている。一方、日向記の各記事の中には、「執事」「老名」という文言が見られ、一部、御感状連判衆、御出頭衆と共通している。御感状連判衆は、その名称から、合戦の論功行賞で主君から出される「感状」に連判した家臣ということか。一方、御出頭衆というのは、奉行的な役割を持って領地経営に当たっていた家臣と見られる。
・御感状連判衆、御出頭衆と併せて記されているのが、「御陣人数積衆」。日向記の記録では、島津氏との対戦の際に、陣を交代で担当した記録があるので、それか。
・このほかに、「山東総奉行」(島津側の記録では日向総奉行)の肩書きを持っていた落合源左衛門がいる。御出頭衆には名が無いものの、奉行の筆頭格、もしくは外城主の総管轄職ではないかとみられる。「外城」とは、南九州一帯に見られる制度名で、領内各地に置かれた拠点を指す。平時には在地支配と税の徴収を、有事には軍事拠点と兵の補給地の役割を持っていた。日向記には、都於郡城、佐土原城の他に47の城が列挙されているが、このほかにもいくつかの外城が存在している。
人 名内 容出典史料
荒武歓久伊東家重臣。兵庫頭入道。
天文18年、飫肥井出尾の戦いで、島津側武将中馬武蔵守と組み打ちを行いその首を取っている。
日向記
綾新右衛門尉御出頭衆。永禄5年8月、土佐一条房基の元へ当主伊東義益の妻となる姫をお連れする使者として赴いた。日向記
荒武三省藤兵衛入道。伊東家の重臣で、天文2年、伊東祐清(義祐)と祐吉の兄弟が叔父祐武の乱を避けて日向を離れようとしたとき味方になり、祐武に迫り切腹に追い込んだ。さらにその子左兵衛佐を攻める。天文3年米良一揆が起こった際に高城攻防戦で戦死。日向記
荒武宗会豊後守。御陣人数積衆の一員として名がある。天文24年9月12日の犬追物で「九騎犬追物手組」として名前が見られる。日向記
荒武宗代右近丞。御陣人数積衆の一員として名がある。天文2年に伊東祐清(義祐)・祐吉兄弟が祐武の乱で領外へ落ち延びようとしたときにお供をしている荒武右近丞は、同一人物か。永禄4年10月18日の犬追物に参加している。日向記
荒武宗種杢左衛門尉。御陣人数積衆の一員として名がある。天文18年4月の飫肥合戦の時の戦死者の中に荒武杢左衛門の名がある。日向記
荒武宗並伊東家執事。右京亮。
将軍義晴から一字拝領する際に使者として派遣された。天文17年頃の伊東家執事5人の一人として名が挙げられている。
日向記
飯田祐恵肥前守。三納城主。日向記の「諸侍惣領」の一覧に名があるほか、伊東祐清(義祐)が祐武の乱で荒武氏らを味方に付けて戻ってきたときに諸県荘で味方になった人物、天文24年9月12日の犬追物の記録に出てくる人物、また島津方の記録にのみ、元亀3年の木崎原の戦いで戦死した人物にも名があり(日向記にはない)、天正5年の伊東家没落時に島津側に捕らえられ切腹した人物の記録があるため、あるいは親子2代飯田肥前守と名乗っていたものか。没落時の肥前守は、槍の達人と記されており、捕らえられ切腹したとき、「折角の槍も主無き今は甲斐もない」と島津家臣が嘲弄したとき、島津義久が彼をかばっている。日向記
稲津重恒伊東家執事。三郎右衛門尉。
日向記によれば、天文17年頃の伊東家執事5人の一人として名が挙げられている。
日向記
入下弥四郎入下領主。日向記
内田四郎左衛門尉守永城主。日向記
小崎右近将監神門三方領主。星原城主か。日向記
落合兼仲伊東家執事。淡路守。
日向記によれば、天文17年頃の伊東家執事5人の一人として名が挙げられている。
日向記
落合兼教伊東家重臣。越後守。
御感状連判衆に名を連ねる。天文22年8月に、島津氏との講和交渉を担当。島津氏領飫肥東300町の伊東方への割譲を話し合う。永禄5年8月10日、伊東義益の妻となる姫を土佐一条氏の元に迎えに赴く。
日向記
落合源左衛門尉
1535〜1572
伊東家重臣。
天文21年に義祐が海道衆を置いて僧侶を政治参加させようとしたとき、これを諫めた。天文24年9月12日、永禄4年10月18日の犬追物に参加。永禄10年5月、飫肥美美田で島津軍と戦う。同11年2月21日、飫肥攻防戦で木脇越前守と共に島津軍を襲撃して勝利した。山東総奉行の職にあり、おそらく外城制度の担当であったものと思われる。元亀3年5月4日、木崎原の戦いで戦死。37歳。
日向記
旧記雑録
落合兵部少輔穆佐(むかさ)城主。日向記
落合民部少輔財部城主。元の名を藤九郎。日向記
上別府狩野介飫肥衆。永禄11年に飫肥城が島津側から明け渡された後、城下に6町の知行を受けた。天正5年6月18日、櫛間攻撃からの退却の際に、しんがりを勤めている。伊東家没落の一行に名前が見られる。日向記
上別府宮内少輔清武地頭。長倉伴九郎と併記されているが、2人で地頭職をしていたのかは不明。天文20年9月5日の目井城攻防戦の時、大手門二重目の内で戦う。元亀3年、木崎原の戦いで戦死。41歳。日向記
上別府常陸守飫肥城主補佐。瀬平城主。永禄5年5月の最初の島津軍からの飫肥城明け渡しの際に、飫肥地頭に任命されたが、同年9月に島津軍の奇襲を受け、一旦退いた。同11年の再度の飫肥城明け渡し後、飫肥城主となった伊東祐兵がまだ若年だったため、福永宮内少輔と共に補佐に当たった。日向記
川崎和泉守紫波須崎城主。上総守の子。日向記
川崎上総守紫波須崎城主。日向記
河崎治部大輔飯田城主。日向記
川崎祐長
1533〜1615
駿河守。目井城主、酒谷城主。伊東家が没落した際に、豊後へ従った。大友家が耳川の戦いで敗れて伊東家と険悪な関係になったとき、伊東祐兵の妻を奪って大友宗麟の孫に嫁がせようと言う画策があり、それを知った義祐が川崎祐長に命じて豊後脱出の手配をさせた。伊予に渡った後、貧窮を助けるために酒や織物を作って売ったという記述が日向記にある。祐兵は播磨で秀吉の部下となり、祐長も従って各地を転戦した。後、祐兵が飫肥領主に復帰すると酒谷城主に就き、朝鮮出兵では留守を預かっている。息子の川崎権助は、祐兵の元に身を寄せていた伊東義賢を当主に擁立する動きがあったとき、義賢を暗殺、その時、義賢に悟られぬよう共に毒を飲んで死んだという説が伝えられている。日向記
日向纂記
河崎兵部丞本庄城主。日向記
河崎三河守日向記によれば天文7年頃、伊東家の執事をしていたとある。同14年秋頃、郷原地頭羽嶋越後守、宇宿小次郎の2人に働きかけ、寝返らせている。同年12月に郷原は伊東領となり、近くの目井城も降伏した。日向記
木脇祐守
1515〜1580
越前守。日向記の諸侍惣領の一覧に名前がある。天文20年7月鬼ヶ城攻略後、同城の城主となる。永禄11年2月21日に、飫肥城救援に来た島津軍を小越、阿由越を経て、奇襲攻撃をかけて大勝した。同年6月、飫肥城が島津氏から明け渡されると、同城城主となった伊東祐兵の執事役となり、城下に20町の知行を受ける。天正4年、島津氏の圧力を受けた肝付氏からの提案を受け、伊東義祐・祐兵親子と、戦の協議をした。伊東家没落の際に、飫肥にいたため日向を離れることが出来ず、櫛間に隠れる。天正8年3月22日、島津側に発見され弟八郎左衛門尉と共に切腹となった。日向記
郡司弥六左衛門尉那賀城主。日向記
佐土原左摂伊東家重臣。摂津守入道。
伊東分家の出で、御感状連判衆に名を連ねる。伊東義祐が城主だった佐土原城の城代格。天正5年12月の伊東家没落の時、義祐に同行している。
日向記
佐土原祐章伊東家執事。肥後守。
日向記によれば、天文17年頃の伊東家執事5人の一人として名が挙げられている。
日向記
佐土原遠江守綾城主。日向記
染野志摩介染野城主。日向記
津宮左馬助那賀城主。郡司弥六左衛門の後と見られる。日向記
長倉淡路守酒谷城主。天文24年9月12日の都於郡犬追物に参加。同年11月4日の新山城攻略戦で伊地知美作守を捕らえる。永禄11年6月酒谷地頭に任ぜられた。日向記
長倉河内守田野城主。日向記
長倉宮内大夫田野城主。河内守の子。日向記
長倉能登守祐有天文2年、当主伊東祐充が没し、続く伊東祐武の乱が収まると、伊東家当主の後継に、祐清をさしおいて弟の祐吉を擁し、宮崎城に入った。しかし同5年、祐吉が病死すると、祐清(義祐)が当主となり、立場は悪化。天文10年、飫肥の島津忠広、庄内都城の北郷氏を頼って謀反を起こすが、北郷氏は応じず、飫肥島津氏と共に宮崎城を攻めるが大淀川河畔で敗北し戦死した。日向記
長倉祐政祐有の子。御感状連判衆。勘解由左衛門尉。新七郎。永禄10年5月1日、飫肥で島津軍と対戦した際、敵方の青陰勘解由左衛門尉を討ち取り、その功績で敵将の名と伊東姓を賜った。姓は息子近江守に譲り、自らはそのまま長倉姓を名乗る。伊東家没落後は、豊後と日向を往復し、日向に残った伊東旧臣と島津氏に対する蜂起を企図、都於郡城を攻めたが失敗。その後、大友軍に参加したが、耳川の戦いで高城河原に戦死した。日向記
長倉祐守伊東家執事。兵庫頭。
天文13年1月11日と同14年1月11日の佐土原番弓で筆取役。天文17年頃の伊東家執事5人の一人。天文24年9月12日の犬追物に参加。永禄4年10月18日の犬追物にも参加している。
日向記
長倉藤七穂北城主。伊東家没落時の城主で、長倉洞雲の子。この時、米良山中への道案内を引き受けたとある。日向記
長倉伴九郎清武地頭。上別府宮内少輔と併記されているが、2人で地頭職をしていたのか不明。木崎原の戦いで弟伴十郎と共に戦死。25歳。日向記
長友源二郎新納石城主。日向記
長嶺紀伊守宮崎城主。肥田木勘解由左衛門尉の後とみられる。日向記
奈須祐貞右近将監。伊東家臣で神門星原城主。先祖は那須与市の弟宗久と伝えられる。島津軍の侵攻で伊東家が没落した際に義祐ら一行を保護した。義祐は右近将監に伊東家家系図等を託した。その後、祐兵が旧領を回復した際にこれを返納したという。伊東家大系図
奈須九右衛門尉水志谷領主。日向記
野々尾彦三郎田代三方領主。上野城主。日向記
野村隠岐守倉岡城主。日向記
野村蔵人佐高城城主。日向記
野村刑部少輔内山城主。日向記
野村文綱伊東家重臣。吉次。
御感状連判衆に名を連ねる。内山地頭野村刑部少輔の子か。日向記によれば天正5年頃、執事であったという。謀反した野尻城主福永丹波守の親族にあたる。
日向記
野村山城守倉岡城主。隠岐守の後。日向記
肥田木越前守宮崎城主。肥田木勘解由左衛門尉の後と見られる。日向記
肥田木勘解由左衛門尉宮崎城主。日向記
肥田木四郎左衛門戸崎(土崎)地頭。木崎原の戦いで戦死。日向記
平賀刑部少輔石塚城主。 
福永源左衛門尉高原城主。福永淡路守の子。日向記
福永宮内少輔飫肥地頭補佐。飫肥城主となった伊東祐兵がまだ若年だったため、上別府常陸守と共にその補佐に当たった。謀反を起こした福永丹波守の一族だったが、謀反には加わらず、豊後へ落ち延びる伊東一族に付き従った。日向記
福永新十郎日智屋城主。日向記
福永丹波守野尻城主。
譜代の家臣の出で、重臣野村家の親族。天正5年に謀反を起こし、島津軍勢を引き入れたため、伊東家は没落することになった。謀反の理由は、島津家臣上原長門守の工作で、悪い噂を流され、伊東義祐との間に不和を生じたとか、嫡子の元服を義祐に無視されたことを恨みに思ったためとか、あるいは、野尻城の兵糧が不足した折に、義祐の元に出向いて兵糧米を頼んだが、義祐が遊興に耽って相手にしなかったために失望したなど、諸説がある。島津家によって本領を安堵。
日向記
旧記雑録
福永民部四郎木脇城主。日向記
俣江主税助田代三方領主。日向記
松尾下総守坪屋領主。米良休助の後か。日向記
右松四郎左衛門塩見城主。日向記の諸侍衆惣領の一覧に名がある。天文24年9月12日の犬追物に参加。天正5年2月22日、県土持氏が軍を率いて南下した際に、これを撃ち破っている。日向記
米良喜内山陰領主。日向記
米良休助米良一族の1人で、坪屋地頭。木崎原の戦いで戦死。日向記
米良四郎左衛門尉門川城主。伊東家没落後、島津氏に人質を出して降伏するが、極秘に日向情勢を豊後へ流し、大友氏の支援で伊東家最高を謀る。大友軍の日向進攻に参加し、高城を攻撃するが戦死した。日向記
米良主税助紙屋城主。日向記
米良重方
〜1572
筑後守。米良三ツ山城主、須木城主、野久尾城主。
出自は、肥後菊池氏支流西郷家の末裔か。弟美濃守とともに伊東方について島津氏と戦う。永禄10年10月25日に、島津義弘・家久・金吾の猛攻にあうが、防戦し、義弘を負傷させて退却させる。翌11年、飫肥の攻防戦で劣勢に立たされた島津方の使者北郷忠顕と伊東方代表として霧島で会談、その結果を受けて、島津軍の撤退、領土の伊東・肝付側割譲を実現させた。元亀3年、木崎原の戦いで、退却する伊東方のしんがりを努めて戦死。島津義弘は、その首実検をしたのち、故郷に帰したという。
日向記
米良長門守須木城主。右馬助。日向記
米良分左衛門尾八重領主。日向記
米良矩重美濃守。三ツ山城主。
米良氏の出自で、米良筑後守重方の弟。天正4年、兄筑後守の遺領である加江田郷を伊東家が一方的に伊東帰雲に譲ったことを恨み、三ツ山・須木を島津義弘に譲り、島津軍に降伏した。これにより、飯野城と野久尾城を含めた真幸4ヵ城はすべて島津方の手に落ちた。その後は島津方に本領安堵されたが、伊東家没落のきっかけを作ったことを悔い、天正15年、伊東氏が飫肥の旧領を回復した際に、島津家を出奔、伊東家を訪れて、覚悟の上で先年の行為をわびた。伊東祐兵はこれを許し、彼を再度家臣団に加えた。祐慶の代に清武の地頭に任ぜられ、まもなく没。
日向記
米良民部少輔平野領主。木崎原の戦い戦死者に同名の人物があるが、平野領主、平野地頭と言った記述は見られない。日向記
八代民部左衛門尉曽井城主。下野守。日向記
山田匡徳
1537〜1620
次郎三郎。備前守の子。天文24年11月、新山城攻撃に参加し、庄内衆の亀沢豊前と一騎打ちをして勝利した。永禄10年8月27日の犬追物に参加。永禄11年2月21日、飫肥城救援に来た島津軍を迎え撃ち、前年に戦死した父備前守の仇である勝岡城主和田民部少輔を討ち取ったが、その子の命は取らなかった。伊東家没落後、豊後と日向を往復して伊東家再興を謀り、日向石ノ城に籠って島津軍と戦った。この攻防戦で一度捕らえられるが、島津義弘が家臣に誘ったとき、二君に仕えずと断り、感心した義弘は彼を大友領まで送ったという。島津軍が豊後侵攻を開始すると、栂牟礼城主佐伯惟定の指揮下で迎撃の準備に当たり、攻防戦の総指揮を執った。九州の役でも豊後で島津軍を撃退してその名を知られるが、追いつめられた島津家久を見逃した。伊東祐兵が飫肥に領地を回復すると、大友家を辞して伊東家へ戻り、関ヶ原では東軍に付いた祐兵が大坂に残っていたため、西軍にも兵を出して石田方からの疑いをそらした。飫肥時代に酒谷城城主。日向記ほか
湯地出雲守那賀城主。郡司弥六左衛門の後と見られる。日向記
湯地五郎九郎冨田城主。志摩介。日向記
湯地定時伊東家重臣。三河守。
御感状連判衆に名を連ねる。
日向記
その他の伊東家臣
人 名内 容出典史料
壱岐加賀守天文3年の米良の乱の際、敵を滅ぼす祈願を唱えた人物。その後、永禄5年5月の飫肥城明け渡しの直後に飫肥地頭の補佐役に同名の人物がいる。旧記雑録に「壱岐賀州年代記」というのがある。日向記
海老原清左衛門田野衆。永禄5年5月の飫肥城明け渡し後、飫肥地頭の補佐役となる。同年9月、島津軍の急襲を受け、本城を引き払い西城へ移る際に松尾口で戦死した。日向記
河崎河内守天文24年11月4日、新山城を攻撃して島津側の北郷左馬頭を捕らえる。永禄6年4月14日真幸に出陣し、島津側の坂本某を討ち取る。同11年正月、島津側の池田兵部左衛門尉を討ち取る。元亀3年、木崎原の戦いで戦死。日向記
河崎紀伊守永禄11年正月の飫肥の戦いで島津側の若松新二郎を討ち取る。同年6月の島津方からの飫肥城明け渡し後、飫肥に6町の知行を受けた。天正5年6月19日、櫛間攻略戦でしんがりを勤め、指宿左兵衛尉と戦い戦死。日向記
河崎左馬助天文22年、島津氏との講和のため、島津領飫肥東300町の割譲を話し合う。日向記
河崎主税助永禄11年2月21日、飫肥城救援に来た島津軍を奇襲し、高城城主財部権守を討ち取る。元亀3年、木崎原の戦いで戦死。日向記
河崎備前守天文24年11月4日、新山城を攻撃し、庄内財部城の後見山内二郎左衛門尉を捕らえる。日向記
田中国広
1531〜1614
藤原国広。刀工。日向古屋(綾町古屋)の出身で、刀鍛冶田中国昌(実忠・旅泊庵)の子(系図では実昌の子となっている)。「新刀」鍛冶第一の人と称される。伊東家に仕え、伊東マンショの近侍だったという。伊東家没落に従い、豊後で鍛冶をしていたが、耳川大敗後は消息不明。しばらくして後、関東の足利学校などにいたことが判る(当時足利学校には九州の関係者が多かった)。また足利城主長尾顕長に仕えていたという説もある。その後、天正18年頃に上京し、そのまま京に住んだ。上京後、刀匠埋忠明寿の門下になったという説もあるが、これには否定的な意見が多い。また、朝鮮出兵に参加して、釜山で刀を打ったという説が諸書に取り上げられているが、これにも否定的な意見がある。この頃、石田三成に招かれて刀を製作しており、また日向記には、同時期、太閤検地を実施していた石田三成に従い日向・大隅の地に来ていたとある。文禄年間には佐和山に住んでいたといわれるが、日向飫肥に復帰した伊東家に再び仕えたのも同時期であり、所属は不明な点が多い。伊東家に仕えた後も、そのまま京堀川に在住して刀を作り続けていた。彼の一門には名工が多い。当時から有名な刀鍛冶で、石田三成以外にも、加藤清正、立花宗成など著名な武将・大名らが所有していた。現代でも高値が付く刀工だが、当然、偽物も多く、その歴史も古い。錦袋録
日向記
ほか記録多数
都甲常陸守伊東家が没落した後、肥後へ脱出し、その後数度にわたり日向と豊後を往復しながら伊東家再興を謀った。しかしそのことが薩摩側に知られ、日向潜伏中に塩見で発見され殺害された。日向記
宮田安芸守天文20年9月5日、目井城攻防戦に参加、大手口から門二重目の内で戦う。永禄5年5月の飫肥城が島津氏から明け渡された後、地頭補佐となる。同年9月島津軍が奇襲した際に、栗下加賀守を討ち取ったが、松尾門口で戦死した。日向記
柚木崎丹後守内山衆。池ノ尾城、柚木崎城の城主。名は吉介か。槍あるいは長刀を扱う武人だったと言われる。木崎原の戦いで、退却中の味方を逃がした後、島津義弘と粥餅田(けもんだ)で戦い戦死。肥田木玄斎と共に一騎打ちを挑み敗れたという説や、駆けつけた島津義弘に降伏を表したが、奸計を恐れた義弘に討たれたという説もある。子孫は島津氏に仕えた。日向記
明赫記
飯野由緒
木崎原旧記
御宝物由緒など多数
吉野大炊助天文20年9月5日、目井城攻略の時に大手門攻撃二番隊として突入する。永禄5年5月、島津氏より飫肥城が明け渡されると、城主補佐となる。同年9月17日、島津軍が同城を奇襲した際、西の城に籠城して戦った。日向記
友好関係の諸領主
人 名内 容出典史料
伊地知重興大隅小浜城主。元々島津氏の家臣だったが、永禄年間頃には肝付氏と同盟して島津氏と対立した。元亀2年には島津勢力を大隅半島から駆逐したが、翌3年、島津歳久によって小浜城を落とされた。その後も島津氏とよく戦ったが、天正2年、下大隅5ヵ城を進上することで島津氏に降伏、下之城のみを与えられ、島津家臣として各地を転戦した。旧記雑録
北原兼守日向真幸院領主。伊東義祐の次女麻生氏を妻とした。没後、後継争いで北原氏は分裂、それに介入した伊東氏と島津氏の抗争へと発展する。日向記
伊東大系図
旧記雑録
肝付兼続大隅高山城主。河内守。肝付氏16代当主で、島津日新斎忠良の長女阿南氏を妻とし、妹を島津貴久に嫁がせて関係を強化した。しかし飫肥領主島津忠親と争い、後に島津貴久と対立した。伊東氏と同盟し、大隅廻城攻防戦では島津忠将を戦死させた(ただし勝敗については諸説がある)。永禄5年、飫肥攻略戦に参加し志布志を併合する。まもなく同地で隠居した。永禄9年11月、島津氏が高山城を攻略したとの報を受けて自刃したと言われているが、肝付氏はその後も同地域を支配しており、これには異説がある。旧記雑録
肝付良兼大隅高山城主。河内守。肝付氏17代当主で、伊東義祐の長女高城氏を妻とした。永禄11年、伊東氏と協力して飫肥の島津忠親を攻めて庄内都城へと追放した。さらに元亀2年、大隅小浜城主伊地知重興と協力して島津義久の勢力を大隅から追い出した。しかしまもなく没。死後、肝付氏は内部分裂を起こす。旧記雑録
相良義陽肥後人吉城主、古麓城主。肥後南半分を領有した。相良氏と伊東氏とは犬童氏の乱の時に援助を受けて以来友好で、日向真幸院攻防戦では伊東側に援軍を出した。また大隅菱刈氏と協力して大隅大口を併合、島津氏と戦う。永禄10年には島津氏と戦い勝利するが、同12年に大口を失陥した。肝付氏、伊東氏が相次いで没落すると、島津氏の猛攻にさらされる。天正7年から水俣城攻防戦に突入。重臣犬童頼安の活躍で持ちこたえていたが、同9年、芦北を割譲して和睦。島津氏北上に合わせ、肥後北部の甲斐氏領を攻略することになったが、益城響ヶ原で甲斐宗運に敗れ戦死した。八代日記
日向記
旧記雑録
本田董親大隅守護代。島津氏の家臣で清水城主だったが、姫城主本田実親と争ったことから、島津氏と対立するようになる。伊東氏と結んだとも言われるが詳細は不明。天文17年伊集院忠朗に攻められ日向へ落ち延びた。旧記雑録
三田井惟政高千穂領主。
日向、肥後、豊後の領界付近に勢力を持ち、甲斐氏などを従える。伊東家とは友好関係を結んでいた。伊東家没落の時、豊後を目指す義祐を泊め、大友氏へ案内した。その後も同地を領したが、親武の代の天正19年に県城主の高橋元種に攻められ滅亡した。
日向記ほか