中世日向国関係年表 | |||
建武2年(1335) 〜 慶長 5年(1600) | |||
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この年表は、中世の日向国関係の年表です。 年表事項は、伊東氏、島津氏を中心に、諸家の史料を元にしております。出典史料は( )内に記してます。 時間の前後に於いて日向国に関係する、他国で起こった事象も含まれています。 日時の同じ事項で、史料によって内容が若干違う場合は、別々に掲載されています。 史料の内容の明らかな記録間違いも含まれております。 ※史料によって年月日が異なり、しかし内容がほとんど同じ事項は、後世の日時記録間違いの可能性があります。 ※史料の表現を順守していますので、記された立場上の主観的表現が含まれています。 ※伊東義祐の位階の認可年月日は、記録によって矛盾点がありますが、そのまま載せてあります。 史料には、「薩藩旧記雑録」に所収されている諸家の文書があります。 | |||
年 号 | 西 暦 | 月 日 | 事 柄 |
建武 2 | 1335 | 3月 4日 | 伊東祐持、足利尊氏の命で日向の宮方軍勢を退治するために下向する。(日向記) |
8月24日 | 畠山直顕、日向新納院地頭となる。(新納文書) | ||
建武 3 | 1336 | 4月21日 | 肝付八郎誅伐の令が大隅・薩摩の各地に出される。(各家文書に多数有り) |
5月 | 土持宣栄、新田与党益戸弥四郎の石城を攻める。(旧記前1-1848・1849) | ||
5月 5日 | 三俣院王子城一帯で南北朝両軍が合戦する。(重久文書ほか) | ||
11月 | 畠山直顕、伊東祐廣・肝付兼重の誅伐のため、大田城に入る。(兼重伝)(池端文書) | ||
建武 4 | 1337 | 2月21日 | 兼重誅伐のための北朝軍勢が、三俣院を出発し、大隅へと向かう。(柿木原文書)(川上文書) |
建武 5 | 1338 | 3月14日 | 畠山直顕、南朝勢力攻略のため、出陣の土持宣栄に命令を発する。(大田原文書) |
10月 3日 | 畠山直顕、国富荘名主・荘官ら招聘に応じなかったものを土持宣栄に催促させる。(大田原文書) | ||
暦応 2 | 1339 | 4月20日 | このころまでに肝付八郎没落する。(池端文書) |
暦応 4 | 1341 | 4月22日 | 治部宗栄、伊東祐廣跡地を預かる。(伊地知文書) |
康永 4 | 1345 | 7月17日 | 伊東祐持、讃岐国南条山地頭に任ぜられる。(日向記) |
貞和 3 | 1347 | 8月18日 | 飫肥北郷収納使・弁済使職を鶴一丸久幸任命される。(長谷場文書) |
貞和 4 | 1348 | 7月 7日 | 伊東祐持、京都で死去。(日向記) |
8月 | 伊東祐熈、伊東家の後継となるが下向途中周防で難破し死す。(日向記) | ||
12月 | 伊東祐重、祐持の跡を継いで、日向に入る。(日向記) | ||
貞和 5 | 1349 | 12月 | 伊東祐藤、伊豆国伊東庄を押領。(日向記) |
貞和 6 | 1350 | 6月23日 | 伊東祐重、肥後国杵島地頭に任命される。(日向記) |
観応 3 | 1352 | 4月25日 | 島津三郎右衛門尉資久、宮崎地頭となる。(樺山文書) |
4月29日 | 畠山直顕・伊東八郎ら直冬与党、穆佐院及び島津荘に侵入する。足利尊氏(義詮か?)、島津氏に討伐を命じる。(道鑑譜中) | ||
文和 2 | 1353 | 2月 1日 | 島津氏久、日向本郷の地頭職を賜う。(氏久譜中?) |
文和 4 | 1355 | 4月 | 畠山直顕・伊東ら、土持貞綱らと合戦に及ぶ。(氏久譜中) |
延文 2 | 1357 | 12月13日 | 一色範親、土持冠者に新納院地頭職を賜う。(土持文書) |
延文 4 | 1359 | 11月 | 南朝方武将菊池武光、五千の兵を率い越境、日向三俣院の直冬方畠山軍を攻める。畠山軍、敗北する。(太平記) |
応安 5 | 1372 | 5月20日 | 畠山直顕、肥後へ出兵。今川了俊、土持左衛門太郎に出兵を要請する。(大田原文書) |
12月11日 | 今川了俊、飫肥北郷を兵糧所として、土持三河守に定める。(旧記前2-236) | ||
応安 6 | 1373 | 3月 1日 | 相良・伊東・北原ら共謀して真幸、北郷、野々三谷を攻める。樺山・北郷両軍、島津氏久に援を求め、この日、蓑原で合戦となる(日時に疑問有)。(久氏譜中)(実久譜中) |
11月 5日 | 今川了俊、島津資久に穆佐院領家職半済を兵糧所として預かり置くことを命じる。(樺山文書) | ||
永和 1 | 1375 | この頃北郷義久、都城に拠点を移す。(北郷義久譜中) | |
8月11日 | 島津資久、日向臼杵院地頭職を賜る。(樺山文書) | ||
永和 2 | 1376 | 冬 | 相良・伊東両氏連合し、谷山南方・市来・渋谷・菱刈・牛屎・真幸・肝付・禰寝・櫛島・飫肥・伊東・土持の諸氏これに従い、守護に叛して、真幸・北郷・野々三谷を占領し城を築く。島津氏久、加治木・肝付・財部・伊集院・伊作・鹿児島・大隅・下大隅・大姶良の士卒を率いて出陣する(日時検討余地有)。(義久譜)(山田聖栄自記) |
永和 3 | 1377 | 2月 | 相良・伊東連合軍と島津軍合戦に及ぶ。(山田聖栄自記) |
3月 1日 | 相良・伊東連合軍と島津軍激突し、相良氏頼、伊東祐基ら戦死する。(肝付兼氏譜中) | ||
永和 4 | 1378 | 2月 | 伊東祐重、三納高寺本主童子原領を得るために出陣中死亡。(日向記) |
康暦 1 | 1379 | 祐重嫡男の伊東祐安、伊東家を継ぐ。(日向記) | |
3月 1日 | 庄内の宮方軍勢を攻め、伊東祐基戦死する。(日向記) | ||
至徳 1 | 1384 | 10月 7日 | 犬追物が行われる。(日向記) |
嘉慶 1 | 1387 | 6月 | 今川播磨守、日向探題として下向。(日向記) |
康応 1 | 1389 | 7月17日 | 犬追物行われる。(日向記) |
明徳 4 | 1393 | 8月 | 伊東祐安、伊豆国伊東庄の権利を主張する嘆願書を幕府に出す。(日向記) |
応永 2 | 1395 | 2月29日 | 伊東・島津両家合同で犬追物。(大脇文書)(川上文書) |
応永 3 | 1396 | 前年より九州探題今川氏、穆佐高城を制圧する。(日向記) | |
8月29日 | 島津軍、日向山東へ出兵。(日向記) | ||
11月 7日 | 島津元久、鹿屋周防介に命じて山東に関所を作らせる。(鹿屋文書) | ||
応永 4 | 1397 | 島津軍、清武城を攻撃する。その後伊東と島津両家和睦する。(日向記) | |
4月 | 島津伊久、山北久哲らを大将に清色城を攻める。伊東軍勢は、土持らと40の衆中でこれを迎える。(応永記ほか) | ||
応永 5 | 1398 | 2月19日 | 志布志で島津と伊東両家が会合。犬追物が行われる。(日向記) |
応永 6 | 1399 | 12月18日 | 日向山東地方各所で一揆。(日向記) |
応永 7 | 1400 | 3月 2日 | 島津元久、樺山音久に臼杵院上杉左馬助旧領と宮崎郡戸次丹後守旧領を安堵する。(樺山文書) |
応永 8 | 1401 | 伊東肥後守祐武、石塚城を攻め落とす。(日向記) | |
4月23日 | 島津元久、日向・大隅・薩摩の軍勢を率いて、市来を攻める。(応永記) | ||
応永10 | 1403 | 5月 2日 | 穆佐院高城で島津久豊と伊東祐安の娘の間に虎壽丸誕生する。後の島津忠国。(西藩野史) |
応永11 | 1404 | 6月29日 | 将軍足利義満、日向・大隅・薩摩の争乱を中止させるために、九州探題大友親世をして、使者を派遣させる。(元久公御譜中) |
6月29日 | 島津元久、日向・大隅・薩摩の守護に任ぜられる。(旧記前2-729文書) | ||
応永14 | 1407 | この頃伊東祐尭、島津久豊と共謀して、綾・本城・深歳・飯田・久津良・池尻・白糸・細江の城塞に陣を構える。(元久公御譜中) | |
応永18 | 1411 | 8月 6日 | 恕翁死去。(応永記) |
応永19 | 1412 | 9月25日 | 島津軍、曽井・源藤に出兵。伊東祐立の一族、土持勢ら曽井城に立てこもる。島津軍、攻略に失敗。(日向記) |
9月25日 | 伊東祐安、曽井城を囲み、樺山教宗・北郷知久、曽井に救援に向かうが、敗北し高城に引き上げる。(北郷知久譜中)(國史) | ||
11月25日 | 島津久豊、樺山教宗に日向島津荘の欠所を宛う。(樺山文書) | ||
応永22 | 1415 | 島津軍、跡江から石塚栗下に進出。その後和睦。(日向記) | |
応永24 | 1417 | 6月 8日 | 妻万宮棟上げ、修造。(日向記) |
9月 5日 | 沙弥了心、谷山山田のうち山口村を皇徳寺寄進する。(谷山皇徳寺文書) | ||
応永25 | 1418 | 1月14日 | 伊東祐立、島津久豊と一味同心の契約を交わす。(樺山文書) |
この年 | 伊東勢、石塚氏知行地を加江田に移すことで、伊東宗家は細江を知行。(日向記) | ||
応永26 | 1419 | 島津軍、伊作惣二郎を大将に、車坂城を攻めるが、失敗に終わる。(日向記) | |
この年 | 島津軍、伊東退治のため日向山東へ出兵。島津忠国、油津に進出駐屯する。(義天公御譜中) | ||
応永29 | 1422 | 島津久豊、伊東祐安と戦うが、敗北して数十里を失う。(西藩野史) | |
応永31 | 1424 | 島津久豊、油津に進出。三俣・真幸の軍勢、須木・肥田木の軍勢と戦い、柚木崎・紙屋を得る。伊東祐安、海江田・峠の両城を境界とし、伊東安芸守に海江田城を守らせる。久豊、油津を出て、鵜戸・宮之浦・小内海を経て内海に至る。翌日、海江田城を攻める。(西藩野史)(応永記)(山田聖栄自記) | |
応永32 | 1425 | 1月 | 島津久豊、海江田城を包囲し、城主伊東安芸守、降伏を乞うが久豊これを認めず。伊東祐安、曽井・清武城から二千の兵で熊野川を下り島津軍を攻撃するも敗北し、海江田城を明け渡す。久豊入城して伊東氏を牽制し、その後薩摩に帰国。大友氏、僧を派遣して両者に和を求め、祐安、海江田城に来て島津貴久(忠国)と和談する。(西藩野史)(応永記)(山田聖栄自記) |
1月21日 | 島津久豊、将軍足利義持に拝謁せんと上洛を欲するが病死する。死後義天公と諡される。(西藩野史)(國史) | ||
8月28日 | 島津貴久(忠国)、日向・大隅・薩摩の守護に任ぜられる。(歴代亀鑑)(旧記2-1049) | ||
応永33 | 1426 | 伊東祐立、妹が島津家に嫁ぐのに併せて、薩摩を訪問。命を狙われるが、島津家家臣の樺山左衛門尉に救われる。樺山、薩摩を追われ日向に亡命。(日向記) | |
応永34 | 1427 | 4月29日 | 犬追物行われる。(日向記) |
6月 4日 | 犬追物行われる。(日向記) | ||
10月27日 | 須田木で合戦。(殉國名数)(北郷氏庶流系図) | ||
この頃 | 伊東祐安、祐立を嫡子として、次男祐興を八代に配置する。(日向記) | ||
永享 1 | 1429 | 11月16日 | 島津忠国、都於郡で伊東氏に招かれ、犬追物を行う。(壱岐家文書) |
永享 4 | 1432 | 6月 | 島津軍、都於郡六野原に進出するが、その後内山へ引き上げる。(日向記) |
7月14日 | 河骨で伊東、島津両軍合戦し、島津軍敗北して引き上げる。伊東側、飯田平賀城を知行する。(日向記) | ||
永享 5 | 1433 | 11月27日 | 伊東祐尭、土持氏から嫁を迎える。(日向記) |
永享 6 | 1434 | 3月 5日 | 伊東祐安死去。(日向記) |
9月 8日 | 島津軍、木脇へ進出。(日向記) | ||
10月10日 | 伊東・土持連合軍、木脇却生寺で島津軍と合戦。伊東祐尭・祐賀も出陣。弓削石見守戦死する。桑津留合戦と称される。(日向記) | ||
10月18日 | 伊東・島津両者和睦。飯田を島津側に割譲する。(日向記) | ||
この頃 | 伊東祐武(祐尭の父もしくは兄弟)死去。(日向記) | ||
永享 8 | 1436 | 8月 3日 | 島津忠国、樺山孝久に臼杵院上杉左馬助旧領と宮崎郡戸次丹後守旧領の安堵、大隅姶良郡西俣地頭代官職を任命する。(樺山文書) |
永享 9 | 1437 | 大覚寺義昭、越智氏の乱に乗じて挙兵、将軍殺害未遂で日向に逃亡。釈明の書状を樺山孝久に送り、援を求める。(大興寺文書) | |
永享13 | 1441 | 将軍足利義教、大覚寺義昭討伐令を島津忠国に出し、忠国、樺山教久・山田忠尚・新納忠臣・北郷佐渡守・本田重恒を日向福島に派遣する。(西藩野史) | |
(嘉吉1) | 1441 | 3月13日 | 島津忠国の派遣した軍勢、大覚寺義昭を日向福島で追いつめ、義昭は永徳寺で自殺。山田忠尚が首を打ち、京に送る。(西藩野史) |
4月15日 | 大覚寺義昭討伐で、島津忠国、幕府より礼物を送られる。(藤野文書)(御文庫) | ||
文安 1 | 1444 | 6月11日 | 伊東祐立、上洛の途中で死去。(日向記) |
10月14日 | 伊東祐尭、樺山孝久と盟約をかわす。(樺山文書)(支流系図) | ||
11月15日 | 曽井城、島津氏に通じたので、伊東祐尭これを攻め落とす。(日向記) | ||
文安 2 | 1445 | 4月 3日 | 伊東六郎四郎、樺山孝久と重契約をする。(樺山文書) |
6月 4日 | 伊東祐尭、門川を攻め落とす。(日向記) | ||
9月 8日 | 伊東祐尭、穆佐を攻め落とす。(日向記) | ||
文安 3 | 1446 | 6月29日 | 伊東祐尭、宮崎城を制圧。(日向記) |
文安 4 | 1447 | 11月16日 | 伊東祐尭、石塚・跡江を知行する。(日向記) |
この年 | 三俣領主高木氏没落する。(壱岐加賀自記) | ||
文安 5 | 1448 | 4月 | 清武祐行死去。伊東祐憲後を継ぐ。(日向記) |
島津大岳公、和田氏を誘い、高木氏を滅ぼす。(國史) | |||
5月10日 | 島津大岳公、反抗した島津用久を攻め降す。(國史) | ||
宝徳 1 | 1449 | この年 | 妻万宮再興される。(日向記) |
3月16日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
3月18日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
9月21日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
10月10日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
宝徳 2 | 1450 | 3月16日 | 犬追物が行われる。(日向記) |
4月20日 | 畠山持国、島津忠国に内裏御修理料のため、日向・大隅・薩摩に段銭を催促する。(手鏡所収文書) | ||
10月20日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
10月28日 | 伊東氏、土持氏を招いて犬追物を行う。(日向記) | ||
宝徳 3 | 1451 | 5月 6日 | 佐土原で犬追物が行われる。(日向記) |
5月18日 | 佐土原で犬追物が行われる。(日向記) | ||
享徳 1 | 1452 | 6月12日 | 島津豊後守、飫肥・福島に移る。(忠国公御譜中) |
康正 1 | 1455 | 10月26日 | 細川勝元、和田正存に島津忠国を討伐を命じる。(御文庫他家文書) |
康正 2 | 1456 | 3月24日 | 伊東氏祐、北原貴兼と兵を合わせ、大隅廻・敷根・上井に侵攻する。島津忠国、これを撃退し、伊東・北原連合軍退く。(西藩野史) |
10月 2日 | 土持・県両軍勢、牛山へ出兵。(日向記) | ||
11月22日 | 伊東軍、新納目白で土持勢と合戦。土持勢敗北して引き上げる。(日向記) | ||
この年 | 新納忠続、飫肥で伊東氏に備える。(國史) | ||
長禄 1 | 1457 | 7月19日 | 伊東祐尭、新納院を攻めるために出陣。翌日、財部に到着。(日向記) |
9月12日 | 財部土持氏、伊東氏に降伏して新名爪へ移り、伊東祐尭、財部十城を知行する。(日向記) | ||
長禄 2 | 1458 | 4月10日 | 臼杵衆(県土持勢?)諸処に立てこもる。(日向記) |
長禄 3 | 1459 | 3月27日 | 小櫛下野守、伊東家の使者として上京する。(日向記) |
7月 3日 | 島津氏と伊東氏、三俣院で合戦となる。(殉国名数)(支流系図) | ||
寛正 2 | 小櫛下野守、片山某に暗殺される。下野守息新五郎、上京して幕府に訴え、片山を成敗する。(日向記) | ||
この年 | 足利義政の御教書、伊東家に下される。(日向記) | ||
寛正 5 | 1464 | 4月 9日 | 島津立久と伊東祐国、鵜戸山で会合する。両家の和睦成立する。(日向記) |
寛正 6 | 1465 | 2月29日 | 祐尭の娘、島津立久に嫁ぐ。(新納文書)(立久譜) |
寛正 7 | 1466 | 2月30日 | 伊東祐国、櫛間で島津立久と犬追物を行う。(壱岐家文書)(新納家文書)(鹿屋文書) |
文明 2 | 1470 | 1月20日 | 島津忠国死去。(國史) |
9月 4日 | 島津立久、志布志大慈寺修造料徴収のため、関所を置く。(大慈寺文書) | ||
文明 3 | 1471 | 10月15日 | 伊東氏、日向の支配権を求め、将軍これを許可するも執行されず。(國史)(立久譜中) |
文明 5 | 1473 | 3月14日 | 島津立久、本田兼親に日向須木を攻めるための軍勢を催促する。(本田兼親譜中文書) |
文明 6 | 1474 | 8月 | 行脚僧某、日向・大隅・薩摩を二カ月間巡る。(行脚僧実録) |
文明 7 | 1475 | 12月 | 相良祐頼、北原某と闘言の末斬り合いとなり、両者死亡。相良氏と北原氏の交流断絶する。(國史) |
文明 8 | 1476 | 9月12日 | 桜島爆発。広範囲に降灰する。(國史) |
文明12 | 1480 | 伊東祐国、佐土原を知行、伊東家の家督継承権を得る。(日向記) | |
この年 | 島津軍、紫波洲崎城を攻め落とす。伊東祐国、宮崎まで出陣。(日向記) | ||
文明15 | 1483 | 4月 9日 | 飯尾大和守と布施下野守、日向沿岸の渡唐船警固を島津氏に命ずる。(本田家所蔵文書) |
文明16 | 1484 | 6月21日 | 飫肥で伊東と島津両軍合戦する。(殉国名数) |
11月 | 伊東祐国、弟祐邑とともに35の外城衆を引き連れて飫肥へ出兵。(日向記) | ||
11月 | 北原氏、菱刈氏と謀って島津氏に反乱を起こす。(國史) | ||
11月14日 | 北郷敏久、伊作久逸の所領櫛間を攻め、伊東氏櫛間に救援に向かう。(國史) | ||
11月20日 | 櫛間出兵の軍勢退却する。(國史) | ||
11月28日 | 伊東祐国、数千の兵を率いて飫肥へ侵攻する。鵜戸・安国寺に陣を起き、新納忠続の新山城を攻め落とす。(文明記) | ||
12月 3日 | 伊作久逸、飫肥に出兵し、南郷城を攻め落とす。北郷敏久・樺山長久・村田経安ら軍勢を率い、荘内より酒谷城に入る。(文明記) | ||
12月20日 | 平和泉領主島津豊久、兵三百余で飫肥に援軍に向かい、鎌ヶ倉に陣を置く。(文明記) | ||
12月22日 | 飫肥で伊東・島津両軍勢合戦し、島津豊久戦死する。(文明記) | ||
12月23日 | 伊東軍、楠原を攻め落とす。(日向記) | ||
文明17 | 1485 | 2月 | 伊東祐国、臼杵へ出陣。野別府上城を落とす。(日向記) |
3月 4日 | 伊東祐国、8000の兵を率い、祐邑も8000の兵を率いて、供に飫肥を攻める。4日後、祐尭も清武まで出てくる。(日向記) | ||
4月28日 | 伊東祐尭、清武で死去。(日向記) | ||
6月21日 | 伊東祐国、飫肥城を攻めている途中戦死する。伊東軍、全面撤退。(日向記) | ||
6月22日 | 島津忠昌、軍勢を率いて日向酒谷に至る。伊東祐国、伊作久逸の両軍勢、楠原に至る。忠昌、親兵を率いて戦い、祐国を斬る。伊東勢800人が戦死し、退却。新納駿河守、北原勢に属して戦うも戦死し、伊作久逸も福島へと退却する。(西藩野史) | ||
6月25日 | 島津忠昌、福島に迫り、伊作久逸を包囲する。(西藩野史) | ||
6月29日 | 伊作久逸、島津家に降伏する。(西藩野史) | ||
文明18 | 1486 | 4月 9日 | 伊東祐邑、豊後に支援を頼むために交渉するが、内通しているといううわさが立ち、野村右衛門佐らに殺害される。野村一族は祐良を擁するが、祐良は野村一族11の外城主をことごとく滅ぼす(野村氏の乱)。(日向記) |
12月 | 帖佐の地頭島津忠廉、飫肥の地頭として赴任する。(日向記) | ||
この頃 | 伊東祐良、将軍足利義尹の偏諱を受けて尹祐と改名する。(日向記) | ||
この年 | 伊東尹祐、山之口・梶山・勝岡を攻め落とす(年代疑問も付記)。(西藩野史) | ||
長享 1 | 1487 | 三俣で紛争。伊東側城を二つ占領する。(日向記) | |
延徳 2 | 1490 | 8月20日 | 飫肥の地頭、島津忠廉死去。島津忠朝が後を継ぐ。(日向記) |
明応 1 | 1492 | 9月23日 | 島津忠良生誕。(日新公御譜中) |
明応 3 | 1494 | 3月 | 島津尹祐、飫肥を窺う。豊後大友氏、仲介に乗り出す。10月まで、本庄新左衛門を交渉使として送る。(日向記) |
6月12日 | 新納忠親、伊東尹祐と志和池野頚で戦い戦死。(殉国名数)(忠昌譜中) | ||
9月29日 | 日向志布志・福島で合戦。(忠昌公御譜中) | ||
11月25日 | 島津側、飫肥の替わりに三俣一千町を伊東氏に割譲する。伊東勢、三俣に入る。(日向記) | ||
島津忠昌、甘言を受け入れ軍勢を率いて肝付高山城を攻める。肝付兼久、各地に援を求め、禰寝氏これに応じて高山城へ至る。また伊東勢も呼応して、稲津因幡守をして荘内に攻め入る。伊東越前守、大将として志和池城を攻める。島津播磨守、志和池城に駆けつける。(閑暇吟)(事載軍記) | |||
明応 4 | 1497 | 6月 | 伊東軍勢、佐土原金吾・野村越後守をして梅北城を攻める。伊東兵、鬼山・篠原・紙屋口に入り、和田・高木城を攻める。(事載軍記) |
6月21日 | 島津忠昌、樺山長久に島津荘群本・山田・薄壇を宛う。(樺山文書) | ||
明応 5 | 1496 | 2月 5日 | 犬追物行われる。(日向記) |
文亀 3 | 1503 | 5月28日 | 8月まで雨が降らず大旱魃となる。(日向記) |
9月27日 | 大霜となる。(日向記) | ||
永正 1 | 1504 | 2月24日 | 天から大豆・小豆が降る。(日向記) |
3月21日 | 伊東氏の都於郡城の館が炎上し、伝来の古書多数が焼失。(日向記) | ||
この頃 | 伊東氏、三俣梶山を知行する。(日向記) | ||
永正 3 | 1506 | 1月16日 | 伊東尹祐の舅阿蘇惟乗、死去する。(日向記) |
8月 6日 | 肝付兼久、島津氏に叛する。島津忠昌、兼久討伐の軍を起こすが、新納忠武、志布志の兵を率いて高山援軍に向かい、島津軍は目的達成できず鹿児島に引きあげる。(圓室公旧譜)(島津系図)(西藩野史) | ||
9月11日 | 伊東尹祐夫人死去する。(日向記) | ||
この頃 | 福永伊豆守の娘をめぐって、伊東尹祐と垂水又六の間で紛争となる。垂水又六知行地に戻り、尹祐も舘に引きこもる。落合三河守、尹祐を説得して政務に復帰させる。尹祐、福永氏の娘をめとる。(日向記) | ||
永正 5 | 1508 | 2月15日 | 島津忠昌、国中の反乱に悲憤して自殺す。忠治後を継ぐ。(西藩野史) |
永正 7 | 1510 | 7月 | 伊東尹祐の後妻懐妊する。尹祐、長倉若狭守、垂水但馬守に祝いを上らせるよう下すが、二人は、国に二人の主無しとして諌め、尹祐の勘気を被る。(日向記) |
9月 1日 | 稲津越前守、綾の地頭職を望み、綾の地頭長倉越前守を讒言する。長倉若狭守、綾城に立てこもる。(日向記) | ||
10月13日 | 伊東尹祐後妻出産。虎乗丸と名付けられる。後の祐充。尹祐、嫡子誕生後、宮原へ出陣、姻戚関係のある北原氏も援軍を上畑へ進める。(日向記) | ||
10月17日 | 長倉若狭守と垂水但馬守切腹して綾の乱は終結する。(日向記) | ||
12月23日 | 島津忠治、伊東尹祐の娘をめとる。(忠治公伝) | ||
この年 | 薩隅日大乱。(国史) | ||
永正 9 | 1512 | 伊東尹祐の娘、島津忠治に嫁ぐ。(日向記) | |
永正10 | 1513 | 伊東尹祐後妻に男子生まれる。虎熊丸と名付けられる。後の義祐。(日向記) | |
8月27日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
永正11 | 1514 | 妻万宮の松が突然枯れる。祈祷後復活する。(日向記) | |
8月16日 | 伊東祐国の後妻死去。(日向記) | ||
8月27日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
9月22日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
永正12 | 1515 | 5月28日 | 犬追物が行われる。(日向記) |
5月29日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
8月25日 | 島津忠治、清水城にて死去す。弟忠隆が後を継ぐ。(西藩野史) | ||
永正14 | 1517 | 12月13日 | 将軍、大内家分国にいたり、伊東大和守に忠節を求める書を下す。(新納家文書) |
将軍、大内家分国に移り、伊東和州、忠節を誓う。(旧記所収杉武道書状) | |||
永正15 | 1518 | 11月 3日 | 犬追物が行われる。(日向記) |
永正16 | 1519 | 4月 4日 | 島津忠隆、痘疹にかかり死去す。弟勝久が後を継ぐ。(西藩野史) |
5月27日 | 都於郡で犬追物が行われる。(日向記) | ||
6月 9日 | 都於郡で犬追物が行われる。(日向記) | ||
6月10日 | 都於郡で犬追物が行われる。(日向記) | ||
永正17 | 1520 | 7月 1日 | 伊東氏、三俣勝岡城を荒武藤兵衛にとらせる。(日向記) |
7月 6日 | 伊東軍、都城に押し寄せるが乱戦となる。城ヶ尾を落とす。(日向記) | ||
大永 1 | 1521 | 2月11日 | 島津忠朝、渡唐船修理に関して、塩田壱岐守を使者として大内家に派遣する。(野邊家文書)(忠朝譜中) |
8月23日 | 大友親敦、島津・伊東境界和解に関して、島津忠朝に太刀と鞍を贈る。(野邊家文書) | ||
大永 2 | 1522 | 4月 4日 | 伊東軍、伊東相模守祐梁と武蔵守祐武を大将に兵力10000で本ノ原に押し寄せる。しかし攻略できずに梶山に引き返す。山田城主北郷久家、都城に援軍を要請する。伊東と北原、野々美谷と山田を分割することで連合する。(日向記) |
4月26日 | 山田城の北郷勢、1000の兵で梶山城に押し寄せるが、敗北し山田城に引き上げる。(日向記) | ||
11月22日 | 岩崎で犬追物行われる。(日向記) | ||
この年 | 伊東尹祐、山田・野々美谷城の返還を約束するが、北原氏、山田城を押領する。(野邊所蔵忠朝文書) | ||
大永 3 | 1523 | 11月 8日 | 伊東尹祐、北原氏と共同で野々美谷城を攻め落とす。この戦いで、伊東尹祐、野々美谷城主の北郷尚久ともに戦死する。(日向記)(国史)(庄内平治記) |
伊東祐修、14歳で家督を相続し、祐充と改名する。(日向記) | |||
大永 4 | 1524 | 4月 | 伊東・北原・新納・本田の4氏、連合して北郷氏と争う。(庄内平治記) |
5月 5日 | 野々美谷城の割譲を条件に北郷氏と和睦。(日向記) | ||
8月29日 | 北郷左衛門尉の娘、祐充に輿入。(日向記) | ||
大永 5 | 1525 | 3月 4日 | 犬追物が行われる。(日向記) |
5月 4日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
9月16日 | 伊東祐充、家督相続後初の祭礼。(日向記) | ||
大永 6 | 1526 | 2月17日 | 犬追物が行われる。(日向記) |
3月23日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
7月26日 | 肥後球磨で犬童の乱勃発し、伊東祐充、相良氏の要請で援軍を送る。(日向記) | ||
8月 7日 | 犬童の乱終結。(日向記) | ||
大永 7 | 1527 | 6月15日 | 伊東氏家臣、加治木の反乱に乗じて、出兵する。(国史) |
12月26日 | 相良長祇、犬童の乱の援軍派遣の礼のため、都於郡へ来る。(日向記) | ||
享禄 1 | 1528 | 3月16日 | 犬追物行われる。(日向記) |
3月20日 | 薩摩使者来訪し、和睦の談義が行われる。この日領界が設定される。(日向記) | ||
5月 1日 | 伊東軍、小鷹原に陣を置き新納忠勝の軍勢と戦い敗北。伊東氏、北郷氏に援軍を求め北郷氏、援軍を出し、新納氏を破る。(国史)(庄内平治記) | ||
享禄 2 | 1529 | 4月 | この頃、伊東軍、吉松に在陣。(旧前2ー2147・2151文書) |
享禄 3 | 1530 | 3月 | 相良氏、大口城の島津忠明を攻めるが敗北。(国史) |
7月27日 | 相良氏、菱刈重州と連合し、再度大口城を攻め、島津忠明を敗死させる。(国史) | ||
享禄 4 | 1531 | 6月 | 外威の福永氏を取り除かんとして若衆が都於郡城下東興庵を襲撃。(日向記) |
7月 4日 | 若衆と福永氏の対立激化。(日向記) | ||
7月 7日 | 若衆と福永氏、都於郡城下で合戦に到る。(日向記) | ||
12月13日 | 朝廷の口宣により、加護八幡宮を創建。(日向記) | ||
天文 1 | 1532 | 11月27日 | 伊東軍、北郷忠相・島津忠朝・北原某の連合軍と庄内高城で戦い敗北。(国史)(忠相譜)(庄内平治記) |
11月27日 | 伊東尹祐?、北原兼孝・北郷忠相・島津忠朝の軍勢と戦い敗北。野々美谷城を失う。北郷忠相、野々美谷城を新納忠勝に渡す。(西藩野史) | ||
12月27日 | 庄内三俣で島津豊州家、北郷氏、北原氏の連合軍と戦い敗北。(日向記) | ||
天文 2 | 1533 | 3月 | 伊東尹祐?、島津忠朝と三俣で戦い敗北。伊東家臣の落合刑部、北郷氏に内応して庄内高城を明け渡す。(西藩野史) |
3月28日 | 島津忠朝、伊東軍と三俣で戦い勝利。(国史) | ||
8月18日 | 伊東祐充24歳で死去。(日向記) | ||
9月 2日 | 伊東祐充の叔父伊東祐武、福永氏を自殺に追い込み権力を掌握。(日向記) | ||
9月22日 | 伊東祐清・祐吉兄弟、祐武の害を避けるため、国外へ脱出を謀ろうと日智屋城へ移る。(日向記) | ||
11月16日 | 伊東祐清、荒武三省・伊東相模の援助で都於郡を攻め、祐武を自殺に追い込み、都於郡城に入る。(日向記) | ||
11月17日 | 伊東祐武息の伊東左兵衛佐、米良石見守を頼り反乱を起こす。(日向記) | ||
11月22日 | 山岳の諸衆、伊東祐清派と伊東左兵衛佐派に分かれ、合戦に及ぶ。(日向記) | ||
12月13日 | 内戦は伊東祐清派の勝利に終わり、諸衆は祐清に降る。(日向記) | ||
12月15日 | 北原氏、伊東家の内紛に乗じ綾まで進出。伊東祐清、庄内高城を割譲することで和睦する。(日向記) | ||
天文 3 | 1534 | 1月 6日 | 庄内高城城主落合刑部少輔、北原氏への城明け渡しに反発して城ごと北郷氏に寝返る(閏1月とも言う)。(日向記)(国史)(庄内平治記)(忠相譜) |
1月 | 島津忠朝、三俣高城を落とす。(西藩野史) | ||
2月 2日 | 米良一揆衆、新納高城を攻め落とす。(日向記) | ||
2月 5日 | 伊東祐清、伊東左兵衛佐派をほぼ制圧する。(日向記) | ||
2月28日 | 伊東祐清、新納高城の米良一揆衆を鎮圧するも、重臣荒武三省ら多数を失う。(日向記) | ||
天文 4 | 1535 | 1月 6日 | 長倉能登守、国人に謀り、伊東祐吉を擁立し佐土原城に入城する。伊東祐清、難を避けるために剃髪して隠居する。(日向記) |
1月12日 | 伊東祐吉、伊東家当主として曽井城に入城する。(日向記) | ||
1月15日 | 伊東祐吉、清武城に入城する。(日向記) | ||
2月19日 | 伊東祐吉、宮崎城に入城する。(日向記) | ||
8月14日 | 北郷忠相、新納氏領末吉・松山・梅北を攻める。島津豊後守これを援け、伊東・北原両氏、新納氏を助ける。(忠相譜) | ||
10月10日 | 島津家に内紛起こる。島津勝久没落し、薩摩・大隅・日向の諸氏も内紛状態に。(国史) | ||
12月 | 門川城主某、土持氏と結び伊東氏に反乱を起こす。(日向記) | ||
12月15日 | 伊東祐吉、門川へ出兵して土持氏を破り、反乱を鎮定する。(日向記) | ||
天文 5 | 1536 | 6月 8日 | 伊東祐吉、宮崎城で死去。(日向記) |
7月10日 | 伊東祐清、還俗して佐土原城に入城し家督を相続する。(日向記) | ||
8月30日 | 都於郡六カ所の寺院で戦没者の法要が行われる(9・8まで)。(日向記) | ||
11月 | 伊東氏、加護八幡宮を再興する。(日向記) | ||
天文 6 | 1537 | 4月 | 伊東祐清、従四位下に叙せられる。(日向記)(歴名土代) |
8月23日 | 伊東祐清、将軍義晴の偏諱を許され、伊東義祐と改称する。(日向記)(伊東家文書) | ||
12月22日 | 佐土原城炎上。(日向記) | ||
天文 7 | 1538 | 伊東義祐、偏諱の御礼を幕府にする。(日向記) | |
4月27日 | 将軍家と伊勢氏から偏諱の祝儀が伊東氏に贈られる。(日向記)(伊東家文書) | ||
4月29日 | 伊東家から偏諱の礼3万疋が幕府へ贈られる。(蜷川親俊日記) | ||
7月27日 | 島津忠朝、志布志入城。志布志領主新納忠勝、伊東義祐を頼り落ち延びる。(日向記) | ||
天文 8 | 1539 | 7月11日 | 夜、大風洪水起こる。(日向記) |
8月 4日 | 夜、大風洪水起こる。(日向記) | ||
9月 6日 | 日向で大雪。この年餓死者多数。(日向記) | ||
天文 9 | 1540 | 6月12日 | 伊東義祐の嫡子歓虎丸誕生。(日向記) |
8月28日 | 穆佐城主長倉上総介・長峰地頭長倉能登守、伊東氏に反乱を起こし、北郷・島津豊州両氏に援軍を求める。島津忠広、この日援軍三千騎を派遣する。(記録多数) | ||
9月 3日 | 島津忠広、伊東勢に敗北する(国史では、天文十年説も挙げている)。(記録多数) | ||
天文10 | 1541 | 6月16日 | 伊東・北原連合軍、三俣高城を攻める。(庄内平治記) |
6月26日 | 伊東・北原連合軍、三俣高城を攻める。(国史)(忠相譜) | ||
7月17日 | 長嶺地頭長倉能登守、兄上総介と反乱を起こす。(記録多数) | ||
7月28日 | 長倉氏の反乱拡大し、川南(大淀川南)で合戦。(記録多数) | ||
この頃 | 長倉能登守、援軍を北郷氏に要請するが断られ、飫肥の島津忠広が援軍要請を受ける。(記録多数) | ||
8月27日 | 伊東義祐、大膳大夫に任ぜられる。(日向記)(歴名土代) | ||
8月28日 | 島津忠広、軍勢を山東に派遣。(記録多数) | ||
9月 1日 | 島津軍、穆佐長嶺へ進軍を提案するが、長倉能登守はこれを延期させる。(記録多数) | ||
9月 3日 | 伊東義祐、長倉・島津連合軍を破り勝利する。長倉能登守は戦死、同上総介は北郷氏を頼って落ち延びる。(記録多数) | ||
9月 5日 | 伊東義祐の大膳大夫の認可が下りる。(伊東家文書) | ||
10月10日 | 伊東義祐、重臣と会議し飫肥へ進出する事を決定する。(日向記) | ||
10月17日 | 伊東義祐、飫肥方面へ軍勢を出す。(日向記) | ||
10月18日 | 伊東義祐、瀬平に砦を築き、兵を置いて一旦都於郡へ帰城。同日、島津忠広も鵜戸山烏帽子形に陣を置く。(日向記) | ||
12月10日 | 島津豊州家・北郷・本田・肝付・禰寝・蒲生・伊地知・廻・敷根・上井・入来院・東郷・祁答院の13家、連合して生別府城樺山幸久を攻める。伊集院軍、生別府城へ援軍を出す。(国史) | ||
天文11 | 1542 | 3月28日 | 北原氏、島津貴久と申し合わせて大隅加治木を攻めるが、敗北。(日向記)(忠相日記) |
北原祐兼、溝辺玉利塁を攻める。本田董親と戦い、上野広原で敗北。(記録多数) | |||
5月 | 四辻季遠、日向に下向する。(四辻家譜) | ||
6月18日 | 北郷忠相、北原氏領志和地城を攻める。(庄内平治記) | ||
7月 4日 | 北郷忠相、志和地城を攻め、三口で合戦。(忠相譜)(庄内平治記) | ||
7月24日 | 大友氏の使僧、大友家老中の書簡をもって飫肥に滞在。(忠相日記) | ||
8月 2日 | 北郷忠相、北原氏領木野・牛谷・楠牟禮へ出兵、北原軍と会戦。(忠相譜)(庄内平治記) | ||
8月20日 | 北原氏、三俣高城の北郷氏を攻める。伊東氏も援軍を送るが、北原氏が敗北したため退却する。この出兵で伊東勢の飫肥への進出は中止される。(記録多数) | ||
12月16日 | 北郷忠相、北原氏領野々美谷城を攻め落とす。鳥越の伊東陣も退散する。(国史)(庄内平治記) | ||
天文12 | 1543 | 1月24日 | 北郷忠相、北原氏領山田城を攻め、城主北原遠江守戦死。(忠相譜) |
3月18日 | 鵜戸山の仁王像が汗を流す。(日向記) | ||
3月18日 | 伊東義祐、鵜戸山烏帽子方を攻め落とす。(国史)(庄内平治記) | ||
3月28日 | 伊東義祐自ら前線を視察、鵜戸山を攻撃する。(日向記) | ||
3月30日 | 伊東勢、鵜戸山城を陥落す。島津兵の捕虜の内半分を飫肥の島津氏へ返す。(日向記) | ||
5月11日 | 北郷忠相・忠親、志和地城を攻め落とす。(国史) | ||
7月 5日 | 島津氏、志布志大湯寺の僧好意を伊東との和平斡旋のために豊後へ派遣する。(日向記) | ||
9月29日 | 僧好意、大友義鑑との交渉が不調に終わり帰国。(日向記) | ||
この年 | 唐船17隻が日向に来航。(日向記) | ||
天文13 | 1544 | 1月11日 | 佐土原で番弓が行われる。(日向記) |
2月 | 島津忠広、志布志の僧好意を再度豊後へ派遣。(日向記) | ||
2月12日 | 島津忠広?、鬼が城に陣を置く。(瀬戸口伊豆入道覚書) | ||
2月24日 | 伊東軍、飫肥の町を攻める。(瀬戸口伊豆入道覚書) | ||
10月18日 | 大友義鑑の使定恵院、飫肥の永慶寺に宿泊。(日向記) | ||
閏11月 | 定恵院の仲介で、伊東・島津の和解交渉を行うが、不調に終わる。(国史) | ||
12月 | 定恵院を仲介に伊東・島津の和平交渉行われるが不調に終わる。(日向記) | ||
天文14 | 1545 | 1月11日 | 佐土原で番弓が行われる。(日向記) |
1月24日 | 伊東軍、水谷に陣を置く。(庄内平治記) | ||
1月26日 | 伊東義祐、飫肥へ出兵、水尾に着陣。(記録多数) | ||
1月29日 | 伊東義祐、鬼が城を取る(年代異説も説明)。(国史) | ||
2月12日 | 島津忠隅、鬼が城に陣を置く。(庄内平治記) | ||
2月14日 | 島津忠広、島津賀久を大将に鬼ヶ城に陣を置く。(日向記) | ||
2月24日 | 大宮・中ノ尾で合戦。26日まで続き、両軍撤退。(日向記) | ||
2月24日 | 伊東軍、飫肥の町を攻める。(庄内平治記) | ||
6月29日 | 島津忠隅、鵜戸山を攻め焼き討ちする。(日向記) | ||
8月12日 | 伊東軍、古市の付近を焼き討ちし、作薙をする。(日向記) | ||
12月23日 | 伊東家臣河崎三河守、計略をもって、郷原地頭の羽島越後守、宇宿小次郎を寝返らせる。(日向記) | ||
12月24日 | 郷之原地頭羽島某、伊東方に寝返る。(庄内平治記)(瀬戸口伊豆入道覚書)(時久譜) | ||
天文15 | 1546 | 1月23日 | 島津忠広息の次郎三郎が早世し、北郷左衛門尉を養子とする。(日向記) |
2月 9日 | 伊東義祐、鬼が城を攻め取る。(内膳家譜)(壱岐家文書) | ||
2月28日 | 島津養子縁組の祝宴が行われる。(日向記) | ||
3月15日 | 伊東義祐次男虎房丸誕生、後の伊東義益。(日向記) | ||
12月 3日 | 伊東義祐、従三位に叙せられる。(日向記) | ||
天文16 | 1547 | 1月19日 | 島津忠親、郷ノ原を攻めんとして飫肥・庄内・志布志の兵を集める。(庄内平治記) |
2月23日 | 伊東軍、飫肥本城を攻める。(国史)(壱岐家文書) | ||
4月15日 | 島津忠親、飫肥南郷に新城を構え、北郷忠直を城主とする。(庄内平治記)(時久譜) | ||
7月20日 | 伊東義祐、飫肥富ヶ嶺に駐屯する。(国史)(壱岐家文書) | ||
9月13日 | 島津忠親の家臣日高源右衛門尉、謀反の疑いで飫肥城に幽閉される。その後、親族と名乗る者によって奪取され目井城へ連れて行かれる。(庄内平治記)(時久譜) | ||
11月18日 | 伊東軍、夜目井城を攻略する。(国史)(壱岐家文書) | ||
11月18日 | 目井城の日高源右衛門尉、伊東方に寝返る。(庄内平治記)(時久譜) | ||
11月22日 | 伊東軍、飫肥新城を落とす。城主北郷忠直戦死。(国史)(島津支流系図) | ||
11月23日 | 伊東軍、島津忠親の居城に押し寄せる。(庄内平治記)(忠相日記) | ||
12月13日 | 伊東軍、隈谷城を攻める(国史では南郷熊屋城)。(日向記)(国史)(壱岐家文書) | ||
天文17 | 1548 | 1月24日 | 大友家の使僧真光寺、伊東・島津の和平を斡旋する。三俣高城の伊東割譲案は、北郷氏が拒否し、代わりに六・七百町の土地を割譲する案は、伊東氏側が拒否し交渉は失敗に終わる。真光寺帰国の際に島津忠親は、秘蔵の孔雀を贈る。(庄内平治記) |
1月 | 大隅清水で本田親広反乱。(記録多数) | ||
2月 9日 | 伊東義祐、幕府一代御相伴衆に列せられる(年代疑問)。(日向記) | ||
6月10日 | 伊東義祐長男歓虎丸、四カ月の闘病の末死亡(9歳)。義祐、幻真寺を建立し、自らも出家する。(日向記) | ||
6月21日 | 飫肥田間で合戦。(殉国名藪) | ||
7月 7日 | 伊東義祐、飫肥城を攻める。島津忠親これを撃退。(国史)(忠親譜)(時久譜) | ||
11月 5日 | 伊東氏、夜飫肥新山城を攻め、城兵これを撃退。(国史)(時久譜)(庄内平治記) | ||
12月 4日 | 伊東氏、新山城を攻める(或いは20日か)。(殉国名藪)(庄内平治記) | ||
天文18 | 1549 | 2月20日 | 飫肥井手ノ尾に伊東・島津両軍出兵し、合戦。(日向記)(殉国名藪) |
3月 3日 | 伊東・島津両軍対峙の中、節句を理由に相撲による勝負を行う。(日向記) | ||
3月11日 | 島津貴久、飫肥への援軍として伊集院忠朗を派遣する。(日向記) | ||
4月 2日 | 飫肥中尾で合戦。伊東軍敗北し山東へ撤退。伊集院忠朗も帰陣。(日向記)(忠相日記) | ||
4月 3日 | 郷ノ原の伊東勢、作薙を行い夜半井手平に火を放ち、撤退。(忠相日記) | ||
4月 4日 | 高佐・鵜戸・宮浦の伊東勢、撤退。(忠相日記) | ||
4月 5日 | 目井城の日高氏、海上経由で撤退。(忠相日記) | ||
5月 1日 | 北郷忠相、飫肥の合戦勝利を祈願して、国分宮神社に寄進。(澤家文書) |
天文19 | 1550 | 5月 4日 | 将軍万松院義晴死亡(40歳)。伊東義祐、急遽上洛する。(日向記)(国史) |
8月 | 幕府より飛鳥井左衛門督下向し、鞠の会が行われる。(日向記) | ||
11月26日 | 伊東虎房丸、嫡子として都於郡に移る。伊東義祐、後見となる。(日向記) | ||
天文20 | 1551 | 6月 8日 | 伊東義祐、南都の仏師源五郎兄弟を招き、盧舎那仏を作らせ、大工奥田筑前守に大仏堂を建立させる。(日向記) |
7月 | 伊東勢、鬼ヶ城を攻め落とし、木脇祐守を城主にあて、清武・加江田衆を守備兵とする。(日向記) | ||
9月 5日 | 伊東軍、目井城を攻め、城主新納河内守を打ち取る。(日向記) | ||
12月28日 | 伊東義祐が作らせていた大仏殿が完成し仏像を安置する。あわせて金柏寺を建立。(日向記) | ||
天文21 | 1552 | 6月11日 | 島津貴久嫡男島津忠良、義字を幕府に許可され義辰と改称する。後さらに義久と改称。(国史) |
6月11日 | 島津貴久、従五位下修理大夫に任ぜられる。(口宣案) | ||
夏 | 昨秋の不作から飢饉となり、死者多数。(年代記) | ||
8月 6日 | 島津貴久、大友家老中に伊東退治の要請書簡を送る。(旧記前2ー2685) | ||
10月28日 | 金柏寺の鐘を作り、銘を入れる。伊東義祐この頃より、仏道に傾倒し政道をかえりみなくなる。落合源左衛門尉、義祐を諌め、義祐これを受け入れる。(日向記) | ||
天文22 | 1553 | 閏1月13日 | 伊東義祐、飫肥に侵攻。八幡馬場に入る。島津忠親、これを迎撃する。(内膳家譜)(瀬戸口覚書) |
春 | 大旱魃。(年代記) | ||
8月13日 | 伊東虎房丸、鵜戸神社を参詣。同月、島津氏、祁答院より使僧を永学寺に派遣し、伊東方へ飫肥東300町の割譲を提案する。鬼ヶ城下で両者より使者を出し、和睦協議を行い、飫肥東の伊東方への割譲と伊東軍の撤退で合意する。(日向記) | ||
天文23 | 1554 | 1月18日 | 伊東義祐、本拠を佐土原から都於郡に移す。(日向記) |
3月 5日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
5月 9日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
7月 2日 | 伊東軍、古市時任付近の作薙を行う。島津兵、これを見て出陣。飫肥城が手薄になったところを伊東軍が総攻撃を仕掛けるも失敗。(旧記所収日向記) | ||
12月26日 | 鬼ヶ城火災。飫肥の島津兵、鬼ヶ城を攻撃する。(日向記) | ||
天文24 | 1555 | 3月 | 中尾で合戦。(日向記) |
(弘治1) | 7月 7日 | 伊東軍、古市時任近所の作薙を行う。島津兵、これを見て出陣。飫肥城が手薄になったところを伊東軍が総攻撃を仕掛けるも失敗。(日向記) | |
9月12日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
11月 4日 | 飫肥新山城水切れとなり、伊東軍これを攻め落とす(年代に疑問?)。(日向記) | ||
12月 | 島津貴久、新山城失陥を聞き、援軍を派遣する。(日向記) | ||
12月23日 | 飫肥永源寺付近で合戦。(日向記) | ||
永禄 1 | 1558 | 島津氏、肝付氏と開戦。(日向記) | |
3月19日 | 肝付氏と北郷氏合戦する。(庄内平治記) | ||
3月 | 伊東義祐、櫛間へ出兵。(壱岐賀州年代記) | ||
9月 | 伊東義益、元服。(壱岐賀州年代記) | ||
11月 4日 | 伊東義祐、新山城を攻め落とす。(国史) | ||
11月 5日 | 伊東義祐、新山城を攻め落とす。(時久譜)(庄内平治記) | ||
12月 5日 | 伊東軍、新山城を切り崩す。(時久日記) | ||
永禄 2 | 1559 | 伊東義祐3男虎熊丸誕生。後の飫肥藩初代藩主祐兵。(日向記) | |
3月17日 | 伊東義祐、北原氏後継問題で、北原三河守を殺害する。併せて北原領眞幸院に兵を進める。 (日向記) | ||
6月16日 | 伊東軍、飫肥を攻める。(国史) | ||
永禄 3 | 1560 | 9月 4日 | 伊勢貞孝、奥九州三ヶ国の調停のためまず日向に下向する。伊勢貞孝、伊東家の番弓笠掛日記を所望し、写本を月担上人を介して贈る。(日向記) |
伊東義祐、家督を義益に譲る。(日向記) | |||
12月23日 | 伊東と島津軍、板敷田で合戦。(時久日記) | ||
永禄 4 | 1561 | 5月14日 | 大隅廻城の攻防戦があり、伊東軍も肝付方に合わせて出兵し、飫肥城を攻める。(日向記) |
6月24日 | 伊東と島津軍、板敷田で合戦。(時久日記) | ||
6月26日 | 伊東と島津軍、酒谷で作薙合戦。(時久日記) | ||
7月 5日 | 伊東軍、鎌カクレに陣を置く。(時久日記) | ||
7月12日 | 島津忠将、竹原山で肝付軍と戦い戦死。(旧記他) | ||
8月18日 | 伊東義祐の従三位叙任の勅許がおりる。(お湯殿の上の日記) | ||
8月19日 | 飫肥?で伊東・島津合戦。(時久日記) | ||
10月18日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
10月24日 | 伊東と島津、飫肥長善寺で合戦。(日向記) | ||
11月 | 伊東方より飫肥へ使僧を派遣し、飫肥城明け渡しを要求する。(日向記) | ||
12月21日 | 飫肥より日置周防介が使者として、伊東方からも使者を出し、清武丸目にて協議し飫肥城明け渡しを決定する。(日向記) | ||
12月30日 | 島津氏、飫肥と志布志を伊東方に割譲する。(日向記) | ||
永禄 5 | 1562 | 2月20日 | 島津氏、飫肥城を伊東氏に明け渡す。(時久日記) |
2月22日 | 伊東方、志布志を肝付氏に割譲することで交渉成立。(日向記) | ||
5月18日 | 飫肥割譲完了する。(日向記) | ||
この頃 | 伊東義祐、飫肥紀行を行う。(日向記) | ||
6月 3日 | 島津義久、眞幸院横川に進出。(日向記) | ||
8月10日 | 土佐一条房基の娘と伊東義益との婚姻が成立し、使者を派遣する。(日向記) | ||
9月17日 | 島津忠広の家臣日置・柏原、夜半飫肥城を攻撃し、混乱に乗じて占拠する。伊東方死者多数を出す。(記録多数) | ||
9月18日 | 酒谷城の伊東方も全面撤退し、飫肥の新知行地の大半を失う。(日向記) | ||
永禄 6 | 1563 | 2月27日 | 伊東氏と相良氏同盟を締結。(八代日記) |
3月18日 | 伊東より相良へ使者が送られる。27日帰国。(八代日記) | ||
4月14日 | 相良氏との同盟により、眞幸院へ出兵。(日向記) | ||
5月 3日 | 伊東家、一条房基の娘を迎える。(日向記) | ||
5月 5日 | 島津・北原より相良へ使者が送られる。(八代日記) | ||
5月14日 | 真幸大明神城、伊東氏に攻められ陥落。(八代日記) | ||
8月19日 | 飫肥再度攻略のため瀬平に出陣。(日向記) | ||
8月20日 | 外浦港に唐・琉球貿易船入港。港に来た伊東・島津の兵で紛争が起こる。(日向記) | ||
8月30日 | 相良・伊東両氏年行参会。(八代日記) | ||
永禄 7 | 1564 | 1月20日 | 伊東軍、鬼ヶ城に陣を置く。(庄内平治記) |
3月14日 | 伊東軍、酒谷へ出兵。(庄内平治記) | ||
3月16日 | 伊東軍、飫肥向原で作薙を行う。(庄内平治記) | ||
3月16日 | 飫肥新山付近に出兵。(日向記) | ||
5月 1日 | 伊東軍、今城を攻め落とす。(国史)(義弘譜) | ||
6月 2日 | 将軍足利義輝、日向・薩摩に使者を派遣して、和談を求める。(義久譜中文書) | ||
永禄 8 | 1565 | 伊東義益の長女誕生。(日向記) | |
2月 7日 | 伊東・島津両軍、板敷田で合戦。(時久日記) | ||
2月19日 | 伊東軍、新山に陣を置く。(時久日記) | ||
3月24日 | 伊東軍、楠原に進出。(時久日記) | ||
5月 1日 | 伊東義祐、新山城を攻める。城主日置忠光戦死。(国史) | ||
永禄 9 | 1566 | 3月22日 | 伊東軍、目井に陣を置く。(庄内平治記)(時久日記) |
4月20日 | 飫肥の沖で伊東・島津両軍海戦。(庄内平治記)(時久日記) | ||
秋 | 伊東義祐、三ツ山に塁を築く。(国史) | ||
10月15日 | 伊東・相良同盟により、島津軍大挙飯野に出兵。(箕輪伊賀日記)(長谷場越前自記) | ||
10月26日 | 島津歳久、三ツ山城を攻める。(国史) | ||
永禄10 | 1567 | 1月 | 伊東軍、飫肥新山に出兵。(日向記) |
5月 1日 | 伊東・島津両軍、飫肥美々田で合戦。(日向記) | ||
伊東義祐、島津日新斎忠良と和睦。(日向記) | |||
8月27日 | 犬追物が行われる。(日向記) | ||
9月14日 | 伊東義益の長男誕生。将軍義昭に命名を依頼し慶龍丸とつけられる。後の伊東義賢。(日向記) | ||
10月 | 菱刈氏より伊東氏に島津軍出兵についての注進あり。(日向記)(箕輪伊賀日記)(長谷場越前自記) | ||
10月25日 | 島津軍、大挙三ツ山城に攻め入る。城主米良筑後守防戦し、島津義弘負傷。(日向記) | ||
12月 | 肝付氏より伊東氏に使者が有り、菱刈の乱により島津軍が肝付方を攻める可能性が出てきたので、飫肥か真幸のどちらかで援軍を要請。(日向記) | ||
12月29日 | 島津軍、菱刈氏居城大口城下で奇襲され、島津軍の市来家利・平田加賀・伊集院久慶戦死。(貴久譜)(忠元譜)(直久譜) | ||
永禄11 | 1568 | 1月 9日 | 伊東軍、20000の兵力を動員して、飫肥へ出兵。(日向記) |
1月11日 | 伊東軍、鬼が城に集結。(日向記) | ||
1月12日 | 伊東軍数千、飫肥城を包囲。(時久譜中) | ||
1月21日 | 伊東・島津両軍による飫肥城の攻防戦が始まる。(日向記) | ||
2月21日 | 島津方援軍13000、飫肥城救援に向かう途中、小越で伊東軍と合戦。伊東方の勝利に終わる。島津援軍の北郷忠俊・本田親豊・土持頼綱ら戦死。(日向記)(国史)(殉国名数) | ||
3月 9日 | 寺山直久、大口の兵に襲撃され、家臣20人と供に戦死。(国史) | ||
3月23日 | 菱刈・相良・入来院・祁答院・東郷各氏の連合軍、曽木城を攻める。(国史)(羽作か瀬合戦従軍交名) | ||
5月 | 島津氏、飫肥地方の放棄を決定し、霧島山麓で伊東方と協議。飫肥割譲が決まる。(日向記) | ||
5月 | 島津貴久、飫肥の大敗をきき北郷忠徳をして、須木領主米良筑後守と協議を行い、和睦を決定する。(庄内平治記) | ||
6月 8日 | 飫肥城と酒谷城、伊東方に明け渡され、新たに知行が行われる。これにより伊東48外城体制となる。(日向記) | ||
6月 8日 | 飫肥城、飢餓状態になり城主島津忠親は櫛間へ出奔、伊東・肝付両軍これを追撃。(国史) | ||
8月 9日 | 伊東氏と相良氏と同盟して飯野桶平に陣を置く。(雑抄)(義弘譜中) | ||
永禄12 | 1569 | 3月18日 | 相良家臣深水頼兼、蒲池越中守を大口城下で殺す。(貴久譜中) |
5月25日 | 島津軍、祁答院長野城を攻め、これを落とす。(箕輪伊賀入道覚書) | ||
7月11日 | 伊東義益、岩崎稲荷で参篭中急死。(日向記)(肝付文書)(国史) | ||
7月14日 | 伊東軍、桶平城を放棄。(国史) | ||
8月 2日 | 都於郡城下大池に島が出来る。(日向記) | ||
8月18日 | 長野城、大口城の大敗により、伊東軍桶平より撤退し、これにあわせて島津軍、大口城を攻める。(箕輪伊賀入道覚書) | ||
8月20日 | 伊東軍勢、異変が相次いだため真幸田原より撤退。(日向記) | ||
元亀 2 | 1571 | 6月23日 | 島津貴久死去。(記録多数) |
9月 3日 | 伊東軍、真幸木葉(タカコバ)に陣を置く。番代に伊東加賀守を定める。(日向記)(北郷時久日記) | ||
秋 | 伊地知重興、伊東、肝付、禰寝と連合で鹿児島を攻める。(瀧ヶ水合戦従軍者交名) | ||
秋 | 伊地知重興、肝付省均と連合し、日向、肝付、根占、下大隅の兵船300余で、桜島野尻村を攻める。(長谷場越前自記) | ||
11月20日 | 肝付・禰寝・伊地知連合軍、海上より100余捜の軍船で鹿児島を攻めるが失敗する。(国史) | ||
3 | 1572 | 5月 4日 | 伊東軍勢、伊東加賀守、伊東新次郎、伊東又次郎、伊東修理亮の4人を大将に任じ飯野・加久藤地方の島津陣営を攻撃する。初戦に勝利した伊東軍は、油断している所を島津側の奇襲にあい大敗。4人の大将を始め参戦していた各地の地頭や奉行が戦死する(木崎原合戦)。(記録多数) |
9月26日 | 島津義久、伊地知重興・肝付兼続・禰寝重長の3人を隅州の凶徒として攻めることを決め、この日、島津歳久を大将に、禰寝氏領の小浜古塁を攻め落とす。(記録多数) | ||
元亀 4 | 1573 | 1月 6日 | 肝付軍、北郷領末吉を攻める。(時久譜中)(庄内平治記) |
2月 | 肝付省均、島津氏に対して謀反し独立する。(記録多数) | ||
3月 | 米良美濃、肥田木三郎兵衛・中山主計らと伊東家を裏切り、島津氏に寝返る。(壱岐賀州年代記) | ||
3月12日 | 伊東氏、山東の軍勢を出して、真幸城ヶ尾に陣を置く。(日向記) | ||
(天正 1) | 北郷氏、飛松に出張して道を建設し始めたため、伊東氏側は長倉弾正左衛門尉を派遣してこれを武力中止させようとして、小規模の合戦となる。(日向記) | ||
7月24日 | 島津軍3月以降、大挙肝付氏領に侵攻し、この日、早崎で合戦となる。(日向記) | ||
12月13日 | 島津義久、大隅平小場に出陣。肝付氏、伊東氏と連合して根占に出兵して合戦になる。(年代記) | ||
12月14日 | 島津軍、平常岡を攻め、肝付加賀、佐土原の伊東氏に援軍を要請するが、援兵至らず、島津氏に降伏。(国史)(壱岐家文書) | ||
天正 2 | 1574 | 1月19日 | 前年よりの島津・肝付合戦で、根占攻略に伊東・伊集院等が参戦、根占城に進出した島津方将喜入摂津守を攻める。(日向記) |
1月19日 | 島津軍、牛根城を攻める。伊東氏、伊東権頭を派遣し、肝付・伊地知氏と連合して牛根城援軍に向かうが、敗北。(記録多数) | ||
天正 3 | 1575 | 戦死した伊東加賀守家の家督問題で内紛が起こる。(日向記) | |
2月28日 | 伊東衆、志布志・櫛間に入る。(国史) | ||
12月 7日 | 肝付氏、伊東氏と義絶を通告。(国史)(上井覚兼日記) | ||
12月13日 | 伊東義祐、河崎駿河・同紀伊を派遣し、故肝付義兼の妻で伊東家出自の高城夫人を引き取る。(国史)(上井覚兼日記) | ||
天正 4 | 1576 | 1月 | 島津氏の圧力により、肝付氏側は、伊東氏と義絶する振りをするため伊東氏側と秘密裏に協議し、嘘の合戦を行うことを決定するが、連絡がうまく行かず、伊東側が肝付側を攻撃したため、本当に両家は断絶に至る。(日向記) |
4月25日 | 飫肥城主伊東祐兵が都於郡に参上したのに合わせて犬追物を行う。(日向記) | ||
8月 | 島津軍、大挙真幸地方に侵攻。米良氏が防戦にあたるが、領地問題で伊東氏に恨みをもつ米良美濃守が島津側に寝返り、米良地方は島津側に降る。伊東側は野尻城を前線として防衛にあたる。(日向記) | ||
8月16日 | 島津義久、薩隅の兵を動員して、日向高城攻略の途につく。(記録多数) | ||
8月18日 | 島津義久、飯野に到着。36の外城衆と北郷一雲、肝付衆が集結する。(義久公譜中) | ||
8月19日 | 島津家久・忠長ら、21衆を率いて出陣。続いて義久、17衆を率いて出陣し、高城攻略戦始まる。(記録多数) | ||
8月23日 | 高城城主伊東勘解由、和議を要請し、城を退却する。義久、高城に入る。続いて、高原・高崎・三ノ山・内木場・岩牟礼・須木・須師原・奈崎の8城も放棄され島津領となる。(義久公譜中) | ||
8月23日 | 高城陥落し、三ノ山・温水・須木等7城も相次いで放棄される。(忠元勲功記) | ||
8月24日 | 三ノ山城陥落。(義弘公譜中) | ||
9月10日 | 島津義久、鹿児島に帰着。(国史) | ||
10月 1日 | 肝付兵部、伊東領南郷を攻めるが大敗。(国史)(時久日記) | ||
11月 | 故伊東義益の嫡女と伊東祐兵の婚姻が行われる。(日向記) | ||
天正 5 | 1577 | 2月 9日 | 土持軍、門川へ侵攻。日智屋地方の諸衆、これを防ぎ、乱は終結する。(日向記) |
3月 8日 | 相良氏と島津氏、隣好を結ぶ。(国史) | ||
春 | 肝付・島津連合軍と伊東氏が福島付近で合戦。(忠元勲功記)(箕輪覚書) | ||
6月18日 | 伊東義祐と祐兵、櫛間に攻め入るが、島津側の援軍に敗れる。(日向記) | ||
8月 | 伊東家の家督は、故義益の嫡子義賢に譲られ、義祐が後見となる。(日向記) | ||
9月28日 | 怪星が西南の方向に現れ40日間輝き続ける。(日向記) | ||
12月 7日 | 野尻城主福永丹波守、島津将上原長門守の策謀により、義祐の不興を買い、この日一族らと島津方に寝返り野尻城に島津兵を入れる。(記録多数) | ||
12月 8日 | 伊東義祐、野尻城奪還の兵を発する。同日、島津義久も野尻城に入る。(日向記) | ||
12月 8日 | 島津軍、戸崎城を攻め、城主漆野豊前、城を放棄。(記録多数) | ||
12月 9日 | 山東各地で反乱が続発し、伊東義祐、都於郡城を捨てて北の方へ居を移す決意を固める。(日向記) | ||
12月 9日 | 富田城主湯地出雲守、島津氏に寝返る。(義弘公譜中) | ||
12月11日 | 伊東義祐、穂北の長倉洞雲の館を出て、米良山中に入る。(日向記) | ||
12月12日 | 伊東義祐、尾八重の米良兵庫頭の館に入る。(日向記) | ||
12月13日 | 伊東義祐、祖母ヶ谷に到着。この日、一族の伊東大炊助、島津氏に攻められ自刃。またこの頃、三納地頭飯田肥前も島津側にとらえられ自刃。(日向記) | ||
12月14日 | 伊東義祐、神門村俣江の奈須祐貞の屋敷に入る。祐貞に系図を預ける。(日向記) | ||
12月17日 | 伊東義祐、高知尾塚原に到着。(日向記) | ||
12月18日 | 伊東義祐、塚原弾正宅に泊まる。(日向記) | ||
12月25日 | 伊東義祐、各地を移動しながらこの日、高知尾領主三田井惟政の屋敷に入り、大友宗麟へ使者を出す。(日向記)(大友記) | ||
天正 6 | 1578 | 1月 | 大友宗麟から使者が来て、伊東一族を迎える事を認める旨伝える。(日向記) |
この頃 | 日向地方に伊東家臣を密入国させる。(日向記) | ||
1月 2日 | 土持親成、同栄続を島津氏に派遣する。(日州御発足日々記) | ||
1月17日 | 山毛地頭米良弥次見、日知屋地頭福永新十郎、島津氏に降伏。(日州御発足日々記) | ||
1月23日 | 門川地頭と塩見地頭、島津氏に降伏。(日州御発足日々記) | ||
2月 | 島津氏に降った、米良四郎右衛門尉・右松四郎左衛門尉・米良喜内の3人が、伊東家領地の奪還を企て豊後の佐伯宗天へ連絡をよこす。(日向記) | ||
2月23日 | 米良四郎右衛門尉、伊東残存勢力を率いて県土持氏と合戦に及ぶ。(日向記) | ||
3月 3日 | 長倉勘解由左衛門残兵を集め、石城を占拠。(貫明公譜)(日州平治記) | ||
3月18日 | 島津義久、鹿児島に帰着。三城反乱について、土持氏より連絡が至る。(日州御発足日々記) | ||
4月10日 | 大友義統、土持征伐のため豊後梓山を出立し、松尾城を攻め落とす。(清田文書) | ||
4月15日 | 義統、感状を発行して縣攻めを終了、戦後処理に入る。捕らえられた土持親成は豊後へ送られ、土持氏は滅亡。(記録多数) | ||
7月 6日 | 大友・伊東連合軍、新納石城の島津勢力を攻める。(記録多数) | ||
7月13日 | 島津義久、野尻に到着。(日州御発足日々記) | ||
7月17日 | 島津征久・伊集院忠棟・平田光宗・上井覚兼、石城を攻め落とす。(記録多数) | ||
9月15日 | 大友勢、新納石城で島津側援軍と合戦。大友勢、耳川を横断して浅付山付近に陣を置く。(日向記) | ||
10月20日 | 大友軍、高城を包囲。(日向記) | ||
10月23日 | 三納の反乱軍、平野城を攻め、八代・本城・綾の各城を焼く。(記録多数) | ||
10月24日 | 長倉勘解由左衛門尉、策をもって平野三納を攻める。(日向記) | ||
11月 1日 | 島津軍主力、佐土原に集結。(日州御発足日々記)(日州平治記)(貫明公譜中) | ||
11月10日 | 島津義久、佐土原に到り評議。高城付近に出兵。(日向記) | ||
11月11日 | 大友軍と島津軍、高城付近で衝突。大友軍大敗。(記録多数) | ||
11月18日 | 大友軍の大敗で伊東方の武将、悉く自刃。(日向記) | ||
11月29日 | 島津義久、鹿児島に帰着。(日州御発足日々記) | ||
天正 7 | 1579 | 3月27日 | 島津老中、琉球国へ日向の戦役を伝える。(義久公御譜中) |
4月 | 伊東祐兵の妻を横恋慕した大友宗麟の息子によって生命の危機を感じた伊東祐兵は妻女と父義祐をともない夜間、豊後を極秘に離れ、伊予に向かう。(日向記) | ||
5月16日 | 島津義久、日向の地20町を伊勢神宮に寄進する。(旧記後12-1087) | ||
6月16日 | 細川藤孝、島津氏に鷹の礼状を送る。(旧記後12ー1093) | ||
6月18日 | 飛鳥井雅継、北郷時久の戦功を賞し、また扇子を送る。(北郷一雲譜中) | ||
この夏? | 島津義久、鷹を近衛前久を通じて織田信長に贈る。(御文庫) | ||
この頃 | 伊東家豊後で散り散りとなり、伊東マンショは府内を放浪中に神父に拾われる。(フロイス日本史) | ||
天正 8 | 1580 | 3月22日 | 伊東義祐の元家臣木脇祐守、2年以上の逃亡の末櫛間で島津氏にとらえられ自刃する。(日向記) |
5月 | 島津氏、相良領肥後水俣を攻める。日向からも出兵。(義久御譜中)(忠元勲功記)(旧記後12-1143)(肥後合戦御陣立日記) | ||
8月12日 | 織田信長、大友氏との関係改善を進め、毛利出兵の予定を告げ、入魂を求める。(旧記御文書) | ||
伊東義勝、オルガンチノ神父に伴われ安土セミナリオに入学する。(フロイス日本史) | |||
天正 9 | 1581 | 6月28日 | 織田信長、島津氏と大友氏を和睦させる。(島津家文書) |
伊東義祐の代から、寄宿していた越前出身の山伏三峯、播磨国で秀吉の家臣伊東掃部助と合う。三峯、日向の伊東のことを伝える。(日向記) | |||
天正10 | 1582 | 1月 | 伊東祐兵、妻とその一族、父入道義祐らを引き連れ、播磨国に渡る。祐兵、羽柴秀吉の家臣となるべく、その行列の脇に控えて目に止まり、家臣として30人扶持を得る。義祐は秀吉の配下には付かないと謁見を断る。(日向記) |
5月 1日 | 羽柴秀吉、高松城水攻めを開始。(日向記) | ||
6月 3日 | 羽柴秀吉の元に、織田信長、京都本能寺で明智光秀に殺されたことを知る。(日向記) | ||
6月 9日 | 伊東祐兵、秀吉の供のひとりとして、姫路を出発する。(日向記) | ||
6月11日 | 山崎合戦で、伊東祐兵、敵将を倒して秀吉の手ずから槍を賜う。(日向記) | ||
天正11 | 1583 | 8月 1日 | 伊東祐兵、戦功により河内国丹南郡半田村500石を知行する。(伊東家文書) |
天正14 | 1586 | 4月 1日 | 大友宗麟、大坂城で羽柴秀吉に謁見し、救援を求める。(九州役年月表) |
6月 | 高橋紹運と立花統虎、大坂に使者を派遣し島津征伐を請願。(九州役年月表) | ||
7月25日 | 黒田孝高ら京を出立。(九州役年月表) | ||
8月26日 | 毛利軍と島津軍衝突。(九州役年月表) | ||
10月14日 | 島津家久、佐土原を出立。(九州役年月表) | ||
11月 5日 | 伊東祐兵、黒田軍に属して島津軍と戦う。(日向記) | ||
天正15 | 1587 | 3月 1日 | 羽柴秀吉、大坂城を出立。(言経卿記) |
3月29日 | 羽柴秀長、日向に入り県城を包囲し攻略。土持久綱、佐土原へ去る。(九州役年月表) | ||
4月 6日 | 羽柴秀長軍、耳川を渡り、高城を包囲。この頃伊東祐兵、日向の伊東旧臣を煽動して蜂起させる。(日向記)(豊薩軍記)(九州役年月表) | ||
4月 7日 | 足利義昭の使者、細島に到着。(九州役年月表) | ||
4月10日 | 黒田軍、財部城兵を撃破する。(九州役年月表) | ||
4月12日 | 足利義昭の使者と島津義久会合し、講和について話し合う。(九州役年月表) | ||
4月17日 | 高城で両軍衝突、島津軍敗北する。(島津国史) | ||
4月21日 | 島津義久、羽柴秀長に和議を申し入れる。(九州役年月表) | ||
5月 1日 | 宮部継潤、高城に配置される。島津義久は鹿児島に引き上げ、島津義珍は真幸に引き上げる。(九州役年月表) | ||
5月 3日 | 羽柴秀吉、全軍に停戦を指令する。(九州役年月表) | ||
5月 3日 | 羽柴秀長、義門寺門前・住吉八幡社門前へ軍の禁制を示す。(義門寺文書)(住吉八幡神社文書) | ||
5月13日 | 羽柴秀長、野尻に営を進める。(九州役年月表) | ||
5月19日 | 島津義珍、羽柴秀長に野尻で謁見。(九州役年月表) | ||
5月26日 | 羽柴秀吉、島津久保に真幸院を充行う。(島津家文書) | ||
5月27日 | 北郷一雲、羽柴秀長に野尻で謁見。(九州役年月表) | ||
5月27日 | 羽柴秀長、島津家久に対し佐土原城と知行地の安堵を伝える。(永吉島津家文書) | ||
6月 5日 | 島津家久、佐土原で死去。吉川元長は都於郡で死去。(九州役年月表) | ||
6月11日 | 島津義久、条々をまとめ、日向国の配置についての礼儀等を定める。(島津家文書) | ||
6月11日 | 伊東祐兵、曽井城に入る。(日向記) | ||
6月 | 羽柴秀長帰途につく。(九州役年月表) | ||
天正16 | 1588 | 5月 3日 | 伊東祐兵、飫肥城に入る。(日向記) |
8月 5日 | 伊東祐兵、豊臣秀吉から日向1700町の知行朱印状を賜う。(伊東家文書) | ||
8月 5日 | 島津豊久、豊臣秀吉から佐土原など979町の知行朱印状を賜る。(島津家文書) | ||
8月 5日 | 島津義弘、豊臣秀吉から諸県郡1404町の知行朱印状を賜る。(島津家文書) | ||
天正17 | 1589 | 5月15日 | 秋月種実、日向福島で島津義久と会談。(島津家文書) |
天正19 | 1591 | 9月 | 県領主高橋元種、高智尾の三田井親武を、甲斐宗説と連合で攻め、これを滅ぼす。(延岡郷土史年表) |
天正20 | 1592 | 3月 1日 | 伊東祐兵、朝鮮出兵従軍のため、飫肥を出発する。(日向記) |
4月28日 | 豊臣秀吉、西国の諸大名に朝鮮出兵のための船舶回送を命じる。(島津家文書) | ||
文禄 4 | 1595 | 1月15日 | 朝鮮出兵の内、日向衆は3番隊所属として伊東祐兵・秋月種長・高橋元種・島津忠豊に2000人を出兵させる。(島津家文書) |
慶長 1 | 1596 | 8月 | 米良重隆、上京して高橋元種の越領行為を訴える。(延岡郷土史年表) |
慶長 2 | 1597 | 2月12日 | 朝鮮再出兵として、黒田長政(5000)、毛利吉成・吉政(2000)、島津豊久(800)、高橋元種(600)、秋月種長(300)、伊東祐兵(500)、相良長毎(800)の計10000人は、3番隊と定められる。(島津家文書) |
慶長 3 | 1598 | 8月25日 | 伊東祐兵、秋月種長、高橋元種、島津忠豊、相良頼房に朝鮮からの帰国を命じる。(島津家文書) |
11月 | 高橋元種、高智尾の三田井旧臣らが反乱を起こしたので、これを滅ぼす。(延岡郷土史年表) | ||
慶長 4 | 1599 | 7月24日 | 徳川家康、立花宗茂に庄内伊集院忠真の乱鎮定の出兵を求める。(島津家文書) |
8月 2日 | 徳川家康、高橋元種に庄内伊集院忠真の乱鎮定のための出兵を命じる。(島津家文書) | ||
8月 6日 | 島津義弘、庄内伊集院忠真の乱に援助をした者が伊東家家中にいたと伊東祐兵に伝える。(島津家文書) | ||
8月15日 | 小西行長、徳川家康より庄内伊集院忠真の乱鎮定の出兵を命ぜられる。(島津家文書) | ||
9月 6日 | 庄内伊集院忠真の乱鎮定のため伊東祐兵が出陣準備をしているとき、島津忠恒の出兵延期の報が入る。(島津家文書) | ||
10月 晦日 | 徳川家康、庄内の乱に関して寺沢広高を使者として下向させる。(島津家文書) | ||
12月18日 | 徳川家康、庄内の乱和睦交渉に山口直友を派遣する。(島津家文書) | ||
慶長 5 | 1600 | 2月29日 | 伊集院忠真、島津家に降伏し庄内の乱は平定される。(庄内軍記) |
9月15日 | 関ヶ原で徳川家康と石田三成らの両勢力が衝突。徳川方が勝利を収める。日向地方では、伊東氏のみ徳川方に付くも、直接は戦闘に参加せず。(史料多数) | ||
10月 | 伊東氏の家老稲津掃部が宮崎城の高橋元種将権藤種盛らを攻め、権藤ら城兵は全員討ち死にする。伊東兵は穆佐、国富八代など島津領一帯も攻める。高橋元種は、中央では徳川方に寝返っていたが、情報が伝わらず、稲津らは宮崎城攻めの責任を追及されることになる。(日向記) | ||
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