征夷大将軍一覧
蝦夷征討を目的とした官で、初期には征夷使、征東使などとも呼ばれていた。武家の棟梁という立場での将軍は源頼朝以降で、そのため源氏が就くのが基本となった。以下では、古代・中世の蝦夷征討という目的性や、征夷と征東、大将軍と大使が同一のものとして扱われたこともあるので、名称の異なる時代の分も含めてあります。
代数名称在位期間備考
 多治比県守720征夷大将軍として初見の人物。
 藤原宇合724持節大将軍。
 藤原麻呂737持節大使。
 藤原継縄780伊治呰麻呂の乱で征東大使。
 藤原小黒麻呂780伊治呰麻呂の乱で持節征東大使。
 大伴家持784持節征東将軍で、多賀城へ赴き、同地で没。
 紀古佐美788征東大使。780年にも征東副使なっている。788年の際には、敗北を喫して問題になった。
 大伴弟麻呂791征東大使。
 坂上田村麻呂797征討副使として蝦夷と戦う。のちに征夷大将軍。戦費増大などで遠征が中止になった後は、中央で昇進し、右近衛大将、大納言などになった。将帥の力量があると評された。
 文室綿麻呂811征夷大将軍。
 藤原忠文940征東大将軍。平将門の乱鎮定のためで、従来とは異なる。
 源義仲1184征夷大将軍。源頼朝討伐の名目で。
 1源頼朝1192〜1198源義朝の子。平治の乱に敗北し伊豆配流となった。20年以上の配流生活を続けている中で、関東各地の武士と連絡を取り合ったと言われる。また北条政子と知り合い結婚した。挙兵後一旦敗れて安房へ逃れるが、関東の武士団を率いて復活。後白河法皇と接近、東国経営に乗り出す一方、弟の範頼・義経を派遣して、源義仲、平氏一門を滅ぼした。義経が謀反に及ぶとそれを理由に守護・地頭の設置をはかり、さらに奥州征討を行った。その後上洛、法皇が没すると征夷大将軍に任ぜられた。しかし朝廷政策はうまくいかず、1198年、相模川橋供養の帰途に落馬し、それが元で没した。
 2源頼家1202〜1203頼朝と北条政子の子。将軍に就任したが、13人合議制により権力を手に出来ず、さらに子と弟に権力分譲を迫られ、比企氏をして反北条を掲げ挙兵する。しかし失敗に終わり、さらに和田義盛らにはかって北条討伐を企図するがうまくいかず、結局修善寺に幽閉された。翌年同寺で暗殺される。
 3源実朝1203〜1219頼朝と政子の子。頼家の弟。兄の跡を継いで将軍となる。後鳥羽上皇との関係は友好であったが、やがて幕府対朝廷の構図が鮮明となると、御家人の間で孤立するようになる。その頃からたびたび渡宋を希望するようになる。朝廷での出世は異例の早さで進んだが、右大臣に任ぜられたことを賀するために鶴岡八幡宮に参詣した際、兄の子公暁に襲われ殺害された。藤原定家の弟子で多数の和歌を残した。歌に関しては評価が高い。
 4九条頼経1219〜1244藤原将軍。源家将軍断絶後、皇族将軍を求めた幕府に後鳥羽上皇が拒否を示したため、姻戚関係のあった九条道家の子で1歳半の頼経を迎えた。しかし実権はなく承久の乱も無関係であった。しかし成長するにつれ実家である九条家や、反北条勢力の御家人などが結集するようになった。そのため執権北条経時は将軍職を頼嗣に譲渡させた。しかしその後も鎌倉に居座り続け、反北条勢力の中心にいたため、ついに北条時頼は武力に訴え、京都に追放された。
 5九条頼嗣1244〜1252藤原将軍。頼経の子。執権北条経時の手で将軍となる。当然実権はなかった。一方父親の元には反北条勢力が集結していたため、執権時頼は武力を持って追放し、反北条勢力は次々と討伐された。頼嗣は比較的順調に位も昇っていたが、九条家による幕府転覆の陰謀が取り沙汰されると、それを理由に将軍職を剥奪され京に追放された。父の死後まもなく病死。
 6宗尊親王1252〜1266皇族将軍。後嵯峨天皇の子。謀反の疑いで将軍を解任され帰京した。歌人でもある。
 7惟康親王1266〜1289皇族将軍。宗尊親王の子。途中臣籍降下で源姓を与えられるが、のち親王に復帰した。執権北条貞時の手で辞職に追い込まれ、京に移り住んだ。
 8久明親王1289〜1308皇族将軍。後深草天皇の第6皇子。政治とはほぼ無縁で、19年目に解任され、京に戻った。
 9守邦親王1308〜1333皇族将軍。久明親王の子。詳しい事績は判明していない。幕府滅亡後出家したが、まもなく没した。
 1足利尊氏1338〜1358鎌倉幕府の有力御家人で、後醍醐天皇が幕府に反旗を翻すと、その討伐の任を受けたが、京で幕府に反旗を翻した。後醍醐天皇が京に入り親政を開くと、尊氏は功績を称されたものの政権に参画できず、この間、東国の支配権確保に勤めた。各地で新政に対する反乱が起こると、鎌倉へ下向、北条時行を破るが、弟足利直義と新田義貞との対戦で挙兵。しかし北畠顕家らの軍勢に敗れ、一旦九州へ落ち延びた。その後光厳上皇の院宣を奉じて上京、楠正成の軍勢を破り、京に入って光明天皇をたてた。征夷大将軍になり幕府を開くが、弟直義と対立し、南朝方も絡んで情勢は混乱した。直義を降した後、毒殺したと言われる。信仰心が厚かったと言われ、敵対した後醍醐天皇が没したことを聞くと天龍寺を創建してこれを弔った。
 2足利義詮1358〜1367尊氏の3男で正室の子により嫡子となる。父尊氏が出兵後も鎌倉にとどまった。新田義貞軍が来襲すると、鎌倉を脱出しこれに加わった。以後も鎌倉にとどまり、高師直が執事として就いた。叔父直義と高師直が対立すると、弟基氏を鎌倉に置いて京に上り、直義に代わり政務に就く。父の死後征夷大将軍となる。執事(管領)を置いて政治を行う。
 3足利義満1368〜1394足利義詮の子。11歳で征夷大将軍となる。当初は管領が政治を見た。成長後、室町に樹木で飾った御所を築き、貴族から納税権を奪い、守護勢力を討伐して権力基盤を築いた。朝鮮・中国と貿易を行い、特に明皇帝からは日本国王に册封された。南朝に呼びかけて両朝合一を果たし、将軍職を子に譲った後は、朝廷に接近した。自ら文芸をたしなみ、また大いに支援した。
 4足利義持1394〜1423足利義満の子。父が義弟足利義嗣を偏愛したが、管領らの支援で将軍職に就いた。上杉禅秀の乱が起こると、これを利用して義嗣を殺害した。鎌倉公方持氏と対立したが、周囲の斡旋で和睦した。父義満の政策をことごとく覆し、明との貿易も中止。父への太上法皇の尊号授与も辞退した。
 5足利義量1423〜1425義持の子。在職2年で病死。政務は義持が見たので、特に実績はない。大酒を父に戒められたと言われる。
 6足利義教1429〜1441義満の子で義持の弟。義量が若くて死ぬと、義持はそのまま政務を見たが、後継を定めずに没した。そのため、後継をくじ引きで決めることになり、僧となっていた義教が選ばれた。将軍となると、管領の権力を制限、鎌倉公方持氏を滅ぼし、守護大名を次々と理由を付けて討伐した。さらに朝廷の人事にも介入し、延暦寺を攻め、将軍親政を目指した。勘合貿易を復活するなどの政策を実行した。しかし、討伐の噂に追いつめられた赤松満祐の策略にかかり、赤松邸で開かれた宴席に招かれ殺害された。
 7足利義勝1442〜1443義教の子。父義教が赤松邸で暗殺されると、管領以下諸大名が推して8歳の義勝が擁立され、翌年将軍となる。政務は管領大名合議制によって運営されることになったが、翌年、赤痢にかかり没した。
 8足利義政1449〜1473義教の子で、義勝の弟。父義教、兄義勝が相次いで没したため、家督を継ぎ、元服後将軍となった。当初は管領と政所執事が政務を見た。政所執事の伊勢貞親を頼みとして守護大名の勢力を抑えていたが、貞親が失脚すると政権を維持することは出来なくなった。その上、各守護勢力の内紛、将軍後継問題、幕府権力の対立から応仁の乱に至る。将軍職を子の義尚に譲って、文芸の道に没頭したが、義尚が没したため、政務に復帰せざるを得なくなる。しかしまもなく没した。
 9足利義尚1473〜1489義政の子。父義政は、はじめ弟に家督を譲ることにしたが、その後義尚が誕生したため、後継問題が起こった。将軍に就任後は母親の日野富子が後見となって活動したが、後には親政を目指す。しかし荒んだ生活を送り、それが元で六角氏征伐の陣中で没した。
10足利義稙1489〜93,1508〜1521足利義視(義政弟)の子。当初は義材と名乗った。義尚陣没により、急遽擁立された。義政が没すると実権を握り、中途で終わった六角征伐を再開。しかしこれが細川政元との対立を生み、政元の起こした政変で逮捕され、将軍位を失った。まもなく逃亡、各地を回った後周防の大内氏を頼る。大内軍の支援を受けて政界に復帰、将軍に還任した。しかし大内氏が自領に戻ると今度は細川高国と対立。ついに政変が起こり淡路へと落ち延びた。阿波で没。
11足利義澄1494〜1507堀越公方足利政知の子。上洛し天龍寺の喝食となるが、細川政元の起こした政変により、将軍に擁立された。各地の守護大名が認めなかったため、かろうじて畿内を支配するにとどまる。将軍義材(義稙)が大内軍と共に上洛してくると近江に落ち延びた。近江岡山城で籠城中に没した。
12足利義晴1521〜1546義澄の子。義稙が落ち延びた後、細川氏に擁立された。しかし権力はなく、細川氏の内紛に巻き込まれ各地を転々とした。ようやく細川晴元と和睦したが、京を支配することすらかなわず、1536年にやっと入京した。しかし細川氏の内紛は続き、たびたび京を出奔。ついには三好長慶によって京を追放された。近江を拠点に京を窺うが、ついに客死。
13足利義輝1546〜1565義晴の子。義晴失脚後六角氏の手で擁立され将軍となる。しかし三好氏とたびたび争った。その後三好長慶と和睦にいたり、京に戻るが、周囲はすべて三好氏の領地と化していた。それでも各地の大名同士の和睦を斡旋するなどしたが、独自の政策が三好氏の反感を買い、松永久秀の軍に襲撃され殺害された。塚原卜伝門下で剣の達人でもあり、最後は自ら剣を取って戦ったと言われる。
14足利義栄1568足利義維(義晴弟)の子。義輝を暗殺した三好氏によって擁立された。しかし三好・松永氏の内紛で一時淡路に移り、ついで摂津高槻に入った。その後将軍に就任したものの、ほぼ同時に足利義昭が織田信長に擁立される。まもなく摂津富田で没した。在職期間はわずか7ヶ月。
15足利義昭1568〜1573義晴の子で、義輝の弟。仏門に入っていたが義輝暗殺事件で幽閉される。細川藤孝の手で脱出し、和田惟政、朝倉義景を頼り、将軍位を窺って義栄と対立。織田信長に擁立されて入京し将軍に就いた。しかし権力は信長の手にあり行動を制限されたため反織田連合を呼びかけて挙兵。しかし敗北して幕府は滅亡した。それでも復活を策して毛利・本願寺と手を結んだが、かなわなかった。信長横死の後秀吉に接近し九州の大名の支援を求めたが、幕府復活は成らず、結局秀吉政権下で京に戻り、出家した。朝鮮出兵の際には肥前名古屋に出陣している。
 1徳川家康1603〜1605岡崎城主松平広忠の子。織田・今川の人質となり成長。今川勢の武将となる。桶狭間合戦で独立、織田信長と同盟。三河一向一揆を鎮圧して三河を統一後、武田と組んで今川氏を滅ぼし、信長と共に浅井・朝倉氏を攻めた。次に武田氏と手を切り上杉氏と組んで武田信玄と戦うが敗北。しかし織田と連合で武田勝頼を破る。後、織田信長に謀反の疑いをかけられ妻子を死に追いやった。武田氏を滅ぼした後、上京している時に本能寺の変が起こり、かろうじて帰国した。武田氏の遺領を併合後、織田信雄と組み羽柴秀吉と戦うが和睦、秀吉政権下の大名となる。北条攻めのあと、関東一円を与えられ江戸に移った。朝鮮出兵には参加せず、秀吉の臨終には後事を託されるが、権力を手中に収め、関ヶ原で石田三成らを破ると、1603年に将軍宣下を受けて幕府を開いた。05年には将軍職を秀忠に譲り、徳川世襲の体制を示す。1615年豊臣氏を滅ぼし、全国統一を成し遂げた翌年に没する。
 2徳川秀忠1605〜1623家康の3男で長兄の死、次兄の秀吉養子により家康の後継者となる。娘の千姫は豊臣秀頼と婚約が成立。関ヶ原では真田氏の妨害で遅参し叱責を受けた。しかし1605年将軍職を譲られた。家康在命の時はその意向に従ったが、その死後は独自に政策を実行して徳川幕府の基盤を確立した。
 3徳川家光1623〜1651秀忠の2番目の子。祖父家康の意向で後継者となる。父秀忠の死後は権力を一元化させ、幕藩体制を整えた。弟忠長を改易に処す。貿易を統制するなどの政策を実行した。、
 4徳川家綱1651〜1680家光の子。11歳で将軍となる。病弱だったこともあり、老中らが政治に当たった。
 5徳川綱吉1680〜1709家光の4男。館林城主だったが、将軍家綱に子がなかったため、後継者となる。将軍就任後、自ら政治に当たり、問題があれば譜代親藩でも容赦なく処断し、行政の刷新を図った。しかし人材が育たず、老中堀田正俊が暗殺されると、側近らが上がってくるようになる。従来からあった生類憐れみの考え方を極端化して法令を施行し、貨幣改鋳や土木工事による一部御用商人の勢力拡大によって経済は混乱するなど、一般民衆にとっては悪政となった。結局後継となる男子は生まれず、兄の子を後継者にした。
 6徳川家宣1709〜1712家光の3男で甲府藩主だった徳川綱重の子。叔父綱吉の養子となり将軍後継となる。新井白石を登用して貨幣を改良した。治世期間は短いが前政権との比較もあって良い評価を受けている。
 7徳川家継1713〜1716家宣の子。間部詮房や新井白石が経済改革を行った。
 8徳川吉宗1716〜1745紀州藩主徳川光貞の4男。将軍綱吉の手で越前3万石を与えられる。その後紀州藩を継いだ兄が相次いで没したため、紀州藩主を継いだ。藩政改革を行う。将軍家継が没すると老中に推されて将軍職を継いだ。人事を一新し、御庭番制度、目安箱、足高制、貨幣改良、司法制度整備、防火対策などを次々と実行に移した。しかし経済政策は必ずしもうまくいかず苦慮した。外国の学問輸入制限の緩和、甘藷の普及など独特の政策もある。
 9徳川家重1745〜1760吉宗の子。元々病弱の質で言語も不明瞭だったと言われる。
10徳川家治1760〜1786家重の子。学芸に秀でていたと言われるが、政治は側用人田沼意次が見た。
11徳川家斉1787〜1837一橋治済の子。家治の養子となる。田安家出身の松平定信を登用し政策を当たらせた。しかし定信失脚の後は親政を行い、将軍職を子に譲った後も大御所として政治に影響を与えた。しかしその政策は必ずしもうまくいかず、腐敗が進行する結果となった。天変地異も相次ぎ、内憂外患の中で貨幣経済と庶民文化は発達した。妻と側室40人の間に55人の子供が産まれている。
12徳川家慶1837〜1853家斉の次男。治世の前半は大御所政治の下にあり、その後は親政を行い水野忠邦、阿部正弘を登用して問題に当たらせた。
13徳川家定1853〜1858家慶の子。開国期に当たるが自らは政治を行わず。子がなく将軍後継問題が起こる。
14徳川家茂1858〜1866紀州藩主徳川斉順の子。将軍後継問題で井伊直弼ら南紀派に擁立された。はじめ田安慶頼を、次に一橋慶喜を後見とした。攘夷決行問題で上京したのを始め、3度京に赴いた。政務に関心を示したが病弱で、長州藩との戦争の最中、大坂城で没した。
15徳川慶喜1866〜1867最後の征夷大将軍。水戸藩主徳川斉昭の子。一橋家を相続。将軍後継問題で、中下級の幕臣や外様大名らから推されたが、井伊直弼の決定に敗れた。安政の大獄では隠居謹慎となる。その後将軍家茂の後見職となったが、家茂とは不仲だったと言われる。家茂の死で将軍となった。独自の改革案を持っており、大政奉還を実行に移したが、倒幕勢力のクーデターで京の政界から退き、鳥羽・伏見の戦いでは何故か中途放棄して江戸に戻った。以後、新政府には恭順を示し、静岡で謹慎。明治30年になって朝廷・明治政府と和解し、東京に移り住んだ。洋式の文物に興味を示し、洋装を好んだ他、維新後の隠棲している頃には、写真家として活動していたこともある。