宛城の戦い
西暦197(建安2)年1月、宛城で起こった曹操との戦い。
は一旦は曹操に降ったが、まもなく反旗を翻して駐留する曹操を攻撃した。曹操軍は油断をつかれて大敗を喫し曹操の子曹昂、甥の曹安民、猛将典韋が戦死した。曹操はこの時、絶影という名馬に乗って逃走を図ったが、絶影は頬と足を射られた。曹操自身も腿に矢が刺さって負傷した。曹昂はこの時(おそらく負傷して)馬に乗れなくなっていたため、自分の馬を父親に提供したが、自身は戦死した。曹操はなんとか脱出し、援軍が駆けつけたために立て直した。曹操は典韋の死を嘆いたという。
曹操の妻丁氏には子供がいなかったが、早くに亡くなった劉夫人の子である曹昂を慈しんで育てた。そのため、曹昂が戦死すると丁夫人は嘆き悲しみ実家に帰った。曹操は、彼女が頑固として戻ってこなかったため離縁して卞夫人を正妻とした。
は、を軍師としてたびたび曹操と争い、勝敗の結果はほぼ同等だった。曹操と袁紹の対立が高まると、袁紹陣営から味方になるよう要請がきたが、の意見を入れて曹操に降伏し受け入れられた。これは曹操が袁紹との戦いに専念するのに大きな影響を与えたことになる。

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